2017-10-12

『狂人日記』ゴーゴリ 平井 肇訳 岩波文庫


 ゴーゴリが『狂人日記』を書いたのは1834年である。この年彼はペテルブルグ大学の助教授に採用され、プーシキンらの前で講演を行っている。『狂人日記』はその後ゴーゴリの『官吏物』―――『鼻』、『検察官』、『外套』のトップをなしていた。
 『狂人日記』には薄幸な下級官吏がついには発狂する、空想と現実とのギャップが表現されている。主人公は現実的になんらの根もなしに、自分の環境に目覚ましい役割を演じようという野望に駆られていた。本当は自尊心と功名心を抱く一個の虫けらに過ぎない。
 また『狂人日記』には社会的風刺の鋭い閃きが現れていて、おかしくて悲痛きわまる物語であるが、日記の体裁を破り捨て、何月何日という枠をはみ出してしまうのだ。三十月八十六日から三百四十九年 月二 三十四日まである。(月二は印刷がひっくり返っている)
そして主人公の母を呼ぶ声で結末となっている。お母さん、この哀れな倅を助けてください。
 

歩行距離
10月9日(月)朝0・72キロ昼0・55キロ計1・27キロ
   10日(火)朝0・72キロ昼0・55キロ計1・27キロ
   11日(水)朝1・0キロ昼0・55キロ計1・55キロ
   12日(木)朝1・0キロ昼0・55キロ計1・55キロ
        朝は昨日今日と家から交差点まで1時間5,6分だ。450メートル。そろそろタイムをあげなくては。昼は下りと上りがなかなか慣れない。

ーーー先週のブログはワードからブログにアップする際、ワードの段階で本文が消えてしまった。困ったことだ。失礼しました。ーーー

2017-10-01

基地のない横須賀に


月例デモ節目の500回
きょうも市内歩く
40年超休まず…「市民の理解に感謝込めて」 

「基地のない街」を目指し、横須賀市内を市民らが歩く月例デモが、24日に500回目を迎える。基地が市民生活の一部に組み込まれている街で肩身の狭い思いをすることもありながら、40年以上、一度も欠かさず続けてきた。デモを呼び掛ける「非核市民宣言運動・ヨコスカ」の新倉裕史さん(69)は「基地問題は簡単に解決しない。粘り強く続けたい」と意気込む。(福田真悟)
 東京新聞9月24日(日曜日)

 毎月、最終日曜日に実施しているデモの初回は1976年2月29日。新倉さんを含め11人が参加し、しばらくは参加者が一桁に落ち込む時代もあった。
 「心の中で賛同していても、なかなか運動に加わる踏ん切りがつかないのだろう」と新倉さん。米海軍基地に加え、海上自衛隊の地方総監部がある横須賀。関連の仕事をしている市民は多い。自身も、父が米軍の艦船修理をしていた。「ベトナム戦争が起きるまでは反基地運動は嫌いだった」と明かす。
 参加者が5人にまで減りやめることも検討したが、見捨ててはならないと考える人が市内外から集まり、80年代以降は一桁を脱却。湾岸戦争があった91年の約60人をピークに、平均で3,40人が参加するようになった。
 デモを続ける上で大切にしてきたのは、対話の姿勢。基地で働く人を責め立てるような言動は取らず、米軍基地の前では米兵らに伝わるよう、英語で語りかける。かつて反基地運動に反感を抱いた経験も踏まえ、新倉さんは「彼らのことを考えて活動しなければ、理解は得られない」と強調する。
 粘り強い活動で500回目を迎えても、喜びはない。40年以上も続くのは、それだけ基地の存在が強固なことを意味するからだ。寄港する米海軍の空母は2008年から原子力空母に変わった。「継続のどこが力か」と悩むこともある。
 それでも続けるのは、平和を願う市民の受け皿でありたいとの思いから。500回目は24日午後4時、基地が見えるヴェルニー公園(同市汐入町1)に集合する。新倉さんは「萎縮することなく続けてこられたのは市民の理解があったからこそ。感謝の気持ちを込めて歩きたい」と語った。
                 ―
 月例デモの歩みを振り返る写真展が市民活動サポートセンター(同市本町3)で30日まで開かれている。午前9時―午後10時、入場無料。

歩行距離
9月25日(月)朝1・0キロ昼0・55キロ計1・55キロ
       昼の坂、下り上りは苦しいけど面白い。
  26日(火)朝1・0キロ昼0・55キロ計1・55キロ
       朝、まずまずだが、後半はペースが落ちた。昼、上りは苦しい。
  27日(水)朝1・0キロ昼0・4キロ計1・4キロ
       朝は徐々にタイムが上がった。昼は1棟前の道を2周。
  28日(木)朝――――昼――――
       朝は激しい雨だ。風も強い。
  29日(金)朝1・0キロ昼0・3キロ計1・3キロ
       朝、足が重いので行きは300メートルで止めようと思ったが、勢いにまかせて交差点まで行ってしまった。昼は足が動かなかった。
  30日(土)朝1・0キロ昼0・55キロ計1・55キロ
       足が動くことは動いた。昼は坂の下り上り。まあまあというところか。
10月1日(日)朝1・0キロ昼
        朝、1時間で着いた。これをもっと縮めよう。昼は坂の下り上り、かなり苦しい。

2017-09-24

『カラマーゾフの兄弟』 ドストエフスキー 原卓也訳 新潮社


 『カラマーゾフの兄弟』はドミートリイ、イワン、アリョーシャの三人息子が強欲な父親フョードルとどうかかわっていくか、その果てにフョードルが死んでしまい、ドミートリイが無実の罪をきせられるという物語である。
父親フョードルはドストエフスキーの父親と外面上は似ている。ドストエフスキーの父親は農民たちを厳しく取り扱い、ドストエフスキー18歳の時、農民たちに惨殺された。小間使いとした少女をおかし、守銭奴であり、アル中であり、女癖の悪かった父親だ。『カラマーゾフの兄弟』の父親に「父親殺し」という重いテーマを請け負ったのもうなずける。

長男ドミートリイは父フョードルから「カラマーゾフ的な」抑制のきかぬ情熱を譲り受けた。酒と放蕩に溺れ、汚辱の泥沼にのめり込んでいた。女の肉体美に目がくらむと、いいなずけを放り出し、父親をライバル視して殺してやりたいほど憎む。
しかし彼の心の中では、高潔さと卑しさとがたたかっていた。彼には頭上にひろがる高邁な理想と、眼下にひらける悪臭ふんぷんたる低劣な堕落とを、両方いっぺんに見つめることができた。

次男イワンは24歳の青年である。兄のいいなずけであるカテリーナに思いをはせる。彼は神を否定し、この世では「すべてが許される」という独自の理論を打ち立てた。『大審問官』という物語を弟のアリョーシャに語った。選ばれた少数の支配者とそれに従う大多数の民衆はドストエフスキーの論理である。民衆と自由、権力や世界と人類の未来といった問題に対する作者の予言的な考察が含まれていた。
イワンの思想を全面的に受け入れたのはスメルジャコフである。彼はカラマーゾフ家のコックとして働いていたが、自分の服装に西欧文明を感ずる浅薄な人間でありながら、奸智にたけていて、「すべては許される」という理論を実行に移した。

三男アリョーシャ。影の薄い存在であるが、この小説の中で起こるすべての出来事が、彼の行動に連れて生じている。彼は誰からも愛され、信用される。彼は中途半端な生き方の出来ない人間であり、修道院生活だけが自分の道であるとしていた。
ドストエフスキーは小説の第2部でアリョーシャを革命家にするつもりだったと言われている。修道院を出た後、俗世の悩みや情熱を味わい、革命家になって皇帝暗殺の計画に加わり、断頭台にのぼるはずであった。

以上の4人がカラマーゾフ家の人々であるが、これに女性が加わる。グルーシェニカは悪女として登場する。17歳でポーランド将校に捨てられ、金持ちの老商人に拾い上げられ妾にされた。しかし彼女は献身的に人を愛するタイプとして描かれている。
カテリーナはプライドの高い傲慢な女性である。女学校を出た時、父親を救うために操を捨てようとした彼女を、ドミートリイが金を与えただけで返してしまう。後で彼と婚約するのだが、本当の愛はイワンであった。

今読んでも非常に長い小説である。最初トルストイの『戦争と平和』に匹敵するような小説にしたいというほどだ。それが今の小説になった。最初私はアリョーシャに注目していたが、ドストエフスキーが第2部の構想でアリョーシャを革命家にするという意図があったということで、残念な思いがした。


歩行距離
9月18日(月)朝0・2キロ昼0・25キロ計0・45キロ
      右足がおかしく200メートルで終わり。昼は400メートル行こうと思ったが、250メートルでアウト。
  19日(火)朝0・5キロ昼0・35キロ計0・85キロ
      200メートルの駐車場まで行ってみた。帰りは1棟の表に。昼は1棟前を歩く。
  20日(水)朝0・7キロ昼0・4キロ計1・1キロ
       今日は300メートルまで行った。全体に苦しいが、なじみの顔顔に会えて苦しみも減った。昼は郵便ポストに行ってから1棟の表を歩いた。
  21日(木)朝0・7キロ昼0・55キロ計1・25キロ
       昼の坂、下り上りはきついが、変な意味だが達成感がある。朝、富士山がくっきり見えた。
  22日(金)朝1・0キロ昼0・45キロ計1・45キロ
       朝は1キロ歩いた。昼は坂の下りと上りだが、上ったところで雨が降り出した。
  23日(土)朝0・3キロ昼-------- 計0・3キロ
       朝はかすかに雨。8時半ごろには止んだ。
  24日(日)朝1・0キロ昼0・4キロ計1・4キロ
       朝は少し遅めの出発だ。昼は右足の様子を見ながら歩いた。

2017-09-17

それぞれの願望


 内山節という哲学者が東京新聞に書いたものを何度か読んで、東京以外の田舎に住んでいて世界を見つめる視線に、心を打たれた。今回紹介するこの記事も北朝鮮問題である。先週は半田記者の考えであったが、今週は内山節の鋭い指摘である。
 
「時代を読む」東京新聞 内山 節
8月に入ると、私の家のある群馬県上野村には、雨の多い涼しい夏が訪れた。赤トンボがたくさん舞っている。ツクツクボウシが鳴きはじめ、気がつくと萩の花も咲いている。秋が近づいているようだ。
 私は昔から、何かを考えるときには、自然の意見を聞いてみるという癖がある。たとえばいまの北朝鮮問題をどう考えたらよいのか。はっきりしているのは、自然は戦争を望んではいないということだ。無事に秋を迎え、無事に冬を迎える。それがくり返されることが、自然にとっては何よりなのである。それなのに、なぜ人間は戦争をするのか。きっと自然はこんな答えを出していることだろう。ともに生きることより、自分の願望を実現することに熱心だからだ、と。
 北朝鮮は原爆と長距離弾道ミサイルをもてば、軍事大国として認められるようになり、有利な平和条約などを結ぶことができるという願望をもっている。他方で米国は世界を支配する大国でありつづけたいという願望をもち、中国やロシア、日本もまた、自国に有利な世界秩序をつくりたいという願望をもっている。いわばこの願望こそが、戦争の危機を高めてしまっているのである。
 戦後の日本は、この願望を捨てる決意をしたはずだった。それが憲法9条となって表されていた。しかしいつの間にか、強い国家をつくりたいという願望をもつようになった。
 私は北朝鮮問題の一番の対応策は、無視することだと思っている。軍事的威嚇に対して、軍事的威嚇をもって対応すれば、戦争の危機を高めるだけでなく、相手の軍事力に一定の効果があることを、認めることになってしまう。そんなことより、原爆やミサイルを装備しても、何の成果もないということを教える努力の方が重要なのである。
 それは、長期にわたる経済制裁などをつづけながら、無視された国として扱うということである。軍事力を強化しても何の成果も上がらないという現実をつくりだす方が、北朝鮮の体制の危機を高めることになるだろう。
 もちろん日本は拉致問題を抱えてはいるが、いまの北朝鮮にそれを解決する意志がない以上、そういうやり方が自分たちを孤立させ、危機に追い込んでいくのだということを、徹底して知らせるほかない。
 軍事力に対して、軍事力で対決したりもしない。さりとて実効性のある対話もしない。もちろんつねに情報を収集し、万が一にも攻撃されたときの対応方法をもつことは必要だろうが、徹底して無視するのが一番いい。上野村の自然は、そう言っているような気がする。それが武器をもたない自然の生き方だと。
 この30年あまりのあいだに、世界各国の企業や政府は、中国に巨大な市場があると考えて中国に進出し、中国の術中にはまった。中国に経済的権益をもちたいという願望が、世界の大国になりたいという中国の願望に使われてしまったのである。ここにあったのは、願望と願望のつばぜり合いである。
 とすると、これからの世界に求められているものは、願望を実現しようとすることではなく、ともに無事に生きる世界の模索ではないだろうか。願望をもたない平和主義の知恵を、いまの世界は必要としている。
                              (哲学者)2017・9・10


歩行距離
9月11日(月)朝1・0キロ昼0・5キロ計1・5キロ
       昼は足の運びが今一つ良くなかった。
  12日(火)朝――――昼――――
      雨と風がひどい。
  13日(水)朝1・0キロ昼0・5キロ計1・5キロ
       少し足の運びが良くなっている。昼は足がうまくいかないが、1棟の南側では順調だった。
  14日(木)朝1・0キロ昼0・55キロ計1・55キロ
       なるべく直立して歩くことにした。時間がかかる。昼は下り坂と上り坂。やはりつらい。
  15日(金)朝1・0キロ昼0・55キロ計1・55キロ
       昨日とまったく同じだ。次の段階に行きたい。
  16日(土)朝――――昼――――
       台風が来ると言う話だ。朝ゴミを捨てに行ったときには風だけで雨は降ってなかった。そのうち風もやんで昼ごろには雲が出ている程度だった。雨が降るのは夕方だろうか。
  17日(日)朝――――昼――――
       朝から小雨だ。3時でも小雨模様だ。

2017-09-10

最悪事態、避ける議論を


 「私説 論説室より」東京新聞 半田滋
 北朝鮮は三日、六回目の核実験を行い、先月二十九日には北海道上空を横切る経路で弾道ミサイルを発射した。核兵器とミサイル性能の向上を図る狙いとみられる。
 北朝鮮は、米国に攻撃されたイラクやリビアの二の舞にならないよう強力な抑止力を持てば、米国との交渉に臨めるとして核兵器とミサイルの開発を進めてきた。経済制裁を受けようが、やめることはなかった。
一方の米国は核放棄を米朝交渉の条件としたため、北朝鮮に時間を与える結果となり米国まで届く核搭載の大陸間弾道ミサイル(Icbm)完成は近づいている。米国が武力行使に踏み切れば、被害を受けるおそれがあるのは日本と韓国である。
防衛省が米国から追加購入を計画するミサイル防衛システムはトランプ米大統領の「米国第一」には貢献するものの、どれほど備えても百発百中は望めない。Jアラートの警報は非難する時間と場所がなければ、「危険を知らせた」という言い訳にしかならない。
 二〇一五年七月、核開発を進めるイランは米国、ロシアなど主要六カ国との間で核査察で合意した。イランの核開発能力は維持されたが、戦争という最悪の事態は避けられた。
 米国が「北朝鮮を攻撃しない」という保障を与え、北朝鮮が「他国を攻撃しない」と誓うには、米朝交渉に踏み切り、妥協点を探るほかないだろう。


歩行距離
9月4日(月)朝1・0キロ昼0・4キロ計1・4キロ
      Cさんが、私が一生懸命歩くので、毎日2時間絵を描くことにしたと言った。
  5日(火)朝1・0キロ昼0・6キロ計1・6キロ
      朝は片道20から30秒速くなっているようだ。
  6日(水)朝0・2キロ昼――――計0・2キロ
      朝は曇っていたのでゴミ出しに。
  7日(木)朝1・0キロ昼0・3キロ計1・3キロ
      近所のおばあさんから、ずいぶん速くなったねと言われた。おばあさんも足が痛いそうだ。昼は雨が降るかどうかわからないので300メートルにした。
  8日(金)朝1・0キロ昼0・5キロ計1・5キロ
      あまり調子は良くなかった。
  9日(土)朝1・0キロ昼0・6キロ計1・6キロ
      悪いなりに普通に歩く。昼は公園から上りに入った。
 10日(日)朝1・0キロ昼―---計1・0キロ
      少しは速くなったかな。
      

2017-09-03

The Mighty Rearranger


Cさんから暑中見舞いを出すと言って一月が過ぎた。1ヶ月が過ぎたら残暑見舞いかなと笑っていた。私は何も期待していないから返事もしないでおいた。そしたら8月の下旬、9月の声も聞ける頃、ポストに残暑見舞いが届いた。
 白い封筒に4枚の絵が入っていた。Cさんは画家だ。若い頃、フランスにいたことがあると言う。私はCさんをあまり信じていないから、ああ、そうと言うだけだ。フランスに1年いただけなのか、あるいは10年いたのか、どちらでもいい。
 あの恰好が気に入らない。髪は肩まで垂らし、上はТシャツ下はGパン、後ろから見ると30から40代だが、前から見ると50に近い。彼は誰とでも声を掛ける。私はここへきて1年ちょっとだが、彼は生まれがここらあたりだろう、団地ではない。男だけではなく、女にも同様な話しぶりだ。
 ただ画家というのが引っかかる。早朝私は歩きに行くが、Cさんはコンビニに行く。私は交差点まで1時間ちょっとかかる。もちろん彼は私を追い越す。交差点まで5,6分だ。帰りには私の後から、追いついたと言ってはるか彼方へ去っていった。
 彼が私に声を掛けるのはほんの1分だ。彼はそれなりに話題を持ってくる。私は、へーとかうんといって終わりだ。彼がフランスにいたと言うのがその話題だが、朝までロックを聴いていたとか、今日は昼から雨だってというものある。
 彼が画家だと言うと、どんな絵を描くのだろうと興味をそそる。風景画なんて彼の性に合わない。かといって抽象画というのもなぜかおかしい。画面に向かって絵を描くのだろうが、絵が浮かんでこない。それでいて毎日CDを聴くらしい。
 下の写真は封筒に入っていたものの一部だ。

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 最初、少女っぽいと思ったが、よく見ればそんなことはない。腰の位置がおかしいのではないかとも思う。緑の線が地べたから浮き上がっていなければいけないのに。地べたに腰を下ろしていたら、尻が少し後ろ過ぎるのではないか。そんな印象があった。
 暑中見舞いに返事を書いた。顔の表情と黒い靴が頭に残ったと書いた。ちなみにマイティー リアレンジャーとはなんだろう。アレンジャーなら辞書に載っているが、リが付いているものには辞書の項目にない。「いつもそれを照らし出せ」という英語が黒板みたいなものにあるが、それを参考にしろと言うのか。
 次の日、彼はCDを持ってきた。説明書の1ページ目の裏を開いて、これだよと言った。

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 姿は同じだが顔つきが違った。彼女は15歳の少女で歌手である。CDはロックだが、おおむねスローなものだ。CDを借りた次の日、Cさんは新しいCDが出ていると思うから昨日のものは返さなくてもいいよと言った。古いCDだが新しいCDが出ている。Cさんはこう言ったのだ。本当だろうか。新しいCDを買うまでは大事に取っておこう。


歩行距離
8月28日(月)朝1・0キロ昼0・1キロ計1・1キロ
       もう少し速くなりたい。昼は自治会費を。
  29日(火)朝1・0キロ昼
        速くなったと言ってくれる人がいた。これからもがんばろう。
  30日(水)朝1・0キロ昼――――計1・0キロ
       Cさんに私の手紙をポストに入れておいたことを言った。
  31日(木)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
       雨模様なので途中で切り上げた。
9月1日(金)朝0・6キロ昼――――計0・6キロ
      雨だと思ったら曇りで、空を見れば晴れになるようだ。今日は250メートルで返した。富士山がきれいだ。9月だからかな。
  2日(土)朝――――昼――――
      朝から雨と風だ。昼ごろには止んだかな。
  3日(日)朝1・0キロ昼0・5キロ計1・5キロ
      行きの方が帰りより時間が掛かる。行きは上りだから当たり前だが、もう一つ行きは足が上がらないと言うことがある。行きの100メートルぐらいの最後の下り坂は一生懸命という感じだ。昼は2棟の裏。

2017-08-28

基地の街 歩き続け40年


 17年8月14日東京新聞朝刊1面「心にふれる話」
 「基地のない街を」を合言葉に神奈川県横須賀市で四十年以上、一度も休むことなく続いている月例デモが今秋、5百回目を迎える。横須賀は米原子力空母「ロナルド・レーガン」の母港であり、海上自衛隊もある「基地の街」だ。
 デモを呼び掛ける「非核市民宣言運動・ヨコスカ」の新倉裕史(にいくらひろし)さん(六九)は、一九七六年に始まった一回目から歩き続ける一人だ。最近は平均三十、四十人が参加するデモも、始まった翌年から数年は、参加者が一桁の「つらく悲しい」時代が続いた。
 「参加者が三人になったらやめようと決めました。ある日気が付いたら誰も来なかったでは寂しいから。そうしたらおもしろいもので、いつ三人になるかが楽しみになって」と振り返る。ところが「われわれのデモを見捨ててもいいのか、という人たちがぼつぼつと現れ始めて。いつの間にか一桁を脱しました」。
 長く続くデモは基地が存在し続けた結果でもある。「基地問題は急いで答えを求めるものではない。異を唱え続けることが大事と思っている」。四百九十九回目は二十七日午後四時半、基地が見えるヴェルニー公園を出発する。(加藤寛太)


歩行距離
8月21日(月)朝0・73キロ昼――――計0・73キロ
       昨日とは違って少し調子悪い。足が上がらず坂の集合点で折り返す。
  22日(火)朝0・8キロ昼――――計0・8キロ
       足の調子は良い。早く交差点まで行きたい。久しぶりに富士山が見えた。黒い富士だ。あれが富士山かと疑問に思うほどだ。
  23日(水)朝0・8キロ昼――――計0・8キロ
       週末には交差点までいけるか。
  24日(木)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       交差点の方へ400メートル歩いた。これは絶対週末には交差点だ。
  25日(金)朝0・8キロ昼――――計0・8キロ
     歩きの初めと終わりにゴミを出した。
  26日(土)朝1キロ昼――――計1キロ
      交差点まで行った。時間が掛かったが、まずはこれで良し。帰りに画家のS君から4枚の絵を封筒に入れて私のポストに入れておくと言った。家に帰りその絵を見た。なかなか判断が難しい。
  27日(日)朝1キロ昼――――計1キロ
      もう少し速いといいんだが。
 

2017-08-20

『三たびの海峡』 帚木蓬生(ははきぎ ほうせい)  新潮文庫


 「三度の海峡」の一度目は17歳の少年が朝鮮から九州に行ったことだ。それから1年半後九州を脱出して朝鮮に帰った。三度目は40年後九州にたどり着く。三度目までの40年間、釜山で仕事に成功し二度目の妻と三人の息子に恵まれている。
 この小説は戦争前、二十歳前の少年が過酷な日本の炭鉱で生死を決した話で始まる。奮闘の末、日本を脱出、その間日本の女性と結婚した。彼の故郷ではいびられながらも幸せに暮らし、子供もできたが、日本にいる彼女の父親が無残にも女性と子供を連れて日本に帰った。
 戦後の40年間はさらっと書いて、二度目の日本は最後の地となる。

 少年は日本人に造船所で働くと嘘を言われ、実際の炭鉱の寮は各部屋三畳に五人が眠るタコ部屋だった。何ヶ月かの1回の休み、仲間とアリラン部落に行った。朝鮮の匂いと味がした。また休みには来ようと決めた。
 二度目のアリラン部落は脱出口だった。炭鉱で知り合った日本女性千鶴と一緒だ。千鶴は妊娠していた。部落を出て舟に乗り朝鮮に着く。案の定故郷は冷たい。彼らには子どもの時郎が救いだった。
 少年は千鶴と時郎と離れ、無心に働きスーパーを経営した。

 40年後の日本は、彼が今までの恨みを晴らす番だ。少年時代、情け容赦のない日本人とその手下の朝鮮人は少年とその仲間をこき使った。60過ぎて、日本人・朝鮮人をやり込める。彼はからだをやんでいた。

 この本は友だちから借りて読んだ。作者の最初の小説だからほころびがいくつかある。主人公が裸の文のまま次のステップに行ってしまうのは、改行か小見出しが欲しい。それにしても彼と千鶴が朝鮮で暮らす場面はすごい。作者が朝鮮生まれではないかと思うほどだ。
 〈生者が死者の遺志に思いを馳せている限り、歴史は歪まない〉
 時郎に海峡を挟む二つの民族の優しい架け橋になってほしい、それが60を過ぎた父親の願いだ。


歩行距離
8月14日(月)朝0・6キロ昼――――計0・6キロ
       あまり辛さは感じられなかった。しかし本当に遅い。
  15日(火)朝0・5キロ昼――――計0・5キロ
       昼はまた雨だ。
  16日(水)朝――――昼――――
       朝ゴミを捨てようと玄関を出たら、雨が静かにしっとり降っていた。仕方ないので我が家の玄関の前を何周かして、100メートルくらいは行ったか。
  17日(木)朝0・7キロ昼0・5キロ計1・2キロ
       朝、雨が降っていたので軒下を歩いたら、止んだので交差点方面の駐車場まで行った。昼は2棟の南側を行き、公園から坂道を登って1棟の前に出た。
  18日(金)朝0・7キロ昼0・5キロ計1・2キロ
       見かけは多分みっともないだろうが、気分的にはいい。昼は公園から1棟前の急坂だ。
  19日(土)朝0・7キロ昼0・25キロ計0・95キロ
       300メートル行くには足が重すぎる。昼ははがきを出しにポストへ。
  20日(日)朝0・8キロ昼0・5キロ計1・3キロ
       交差点の方へ350メートル行った。また徐々に行けそうだ。

2017-08-13

あれ 草がいっぱい


6月の夏至の日の前日、植木屋が来て雑草を刈っていったと思ったら、
1か月半を過ぎたころこんな具合になった。

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それが1週間後にはこうだ。

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草が生き生きとしている。



歩行距離
8月7日(月)朝1・0キロ昼――――計1・0キロ
      タイムは遅いが帰りの最後に1棟表を歩いた。
  8日(火)朝0・2キロ昼――――計0・2キロ
      ゴミを捨てに行っただけだ。
  9日(水)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
      足が上がらない。最後は1棟表。あとは医者。
 10日(木)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
      交差点までがだいぶ時間掛かってしまった。
 11日(金)朝――――昼――――
      朝は雨が降っていたので、ゴミを捨ててから家に戻って体操、足上げなどを行った。
 12日(土)朝0・2キロ昼――――計0・2キロ
      朝は雨が降っていた。10時半ごろゴミを捨てに行ったら、ちょうど車が来て係の人に袋を渡した。
 13日(日)朝0・5キロ昼0・5キロ計1・0キロ
      足が上がらなかった。やっと500メートルだ。

2017-08-06

『新年の挨拶』 大江健三郎 岩波現代文庫


 2000年12月15日発行
 雑誌「図書」に20篇のエッセイが連載された。このうち3篇を紹介したい。大江健三郎のエッセイは読みづらくなった。特にアメリカあるいはハワイ、それにアイルランドの小説、エッセイは読み手としては難しい。今、3篇はまだましな方だ。
 
 「アイルランドの飛行士が死を予見する」
 『メンフィス・ベル』というアメリカ映画のヴィデオを友人に送ってもらい、雪が凍り底冷えして、寝つけそうにない深夜に見た。『メンフィス・ベル』は、第二次世界大戦の英国基地から大陸へ爆撃に出る若い米兵士たちの話だ。
 ひとりノートに詩を書いていた、夢見る少年のような若者ダニーが、仲間に強いられて朗読する。それはイェーツの「アイルランドの飛行士が死を予見する」だった。
 私は知っている 最後の時を迎えることを
 あの高みの雲のなかのどこかで。
 戦う相手を憎んでいるのではなく
 衛(まも)る者らを愛しているのでもない。

「緑の壁」
 ザミャーチン『われら』(川端香男里訳)を、岩波文庫に入ったのを機に再読して、これまでにまして切実な印象を受けた。ところで川端香男里は山本政喜の息子である。サミュエル・バトラー作『エレホン』の訳者が山本政喜であった。このイギリス小説を大江はやはり岩波文庫で記憶にきざんでいたからだ。
 『われら』は、全地球が「単一国」に集中され、「恩人」の統治下にある未来世界の物語である。統一後、千年の間に、愛はもとより、理性に反するものはきれいさっぱり追いはらわれて、人びとは個人ではなく「われら」として、国家の員数を構成する者として生きている。
 ザミャーチンは1937年、パリで客死するが、1989年以後、ロシアで単行本になって、若い読者の注目が、ザミャーチンの望んでいた方向であることを信じていたい。

「返礼」
 一冊の書物が、
 真暗な宇宙の中を飛んで行く。
 
 大江は安部公房の死をつたえられた翌日の夜、安部の死に深い悲しみが襲った。かれの書いたすべてのものをふくみこんだ大きい物語を読むことが、そしてかれが同時代の意識からどのようにしてその独自な知覚のかたちを築いたかを受けとめることが、いまわれわれには可能である。
 安部公房は、言葉の普通の意味でも、しっかりと社会に参加した作家だった。チェコスロバキアにソヴィエトの戦車が入った翌朝、大江は安部に同行して、大使館に弔問に行ったこと、またある時期は、共産党員として自分の細胞の地域で地道な活動をしたことが思い出される。
 
 安部公房がいなかったら、われわれのついに自覚しなかったはずの、この時代の「意識」というものがある。むしろその認識とともに、われわれは世紀末を迎えようとしているのではないだろうか。
(「新年の挨拶」の文中表現をいくつか使った)


歩行距離
7月31日(月)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       行きは1時間5分も掛かってしまったが、帰りは55分。上りがいかに辛いかということだ。
8月1日(火)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
       雨のはずが晴れていた。とりあえず300メートルまで行った。帰りはま     だ晴れていたので1棟の表を2周と思ったが、何か足が効かないので1周にした。
  2日(水)朝0・5キロ昼0・5キロ計1・0キロ
      朝は駐車場の山が見えるところ200メートル、昼は2棟横200メートル、帰りは朝昼ともに1棟の表を歩いた。
  3日(木)朝0・7キロ昼0・6キロ計1・3キロ
      朝は交差点の方、300メートルまで行き、帰りは1棟の表を歩いた。
      昼は2棟裏250メートル。帰りは1棟の表。まだ足が出ないが、距離はまずまずだ。
  4日(金)朝0・7キロ昼0・55キロ計1・25キロ
      いつもと同じコース。帰りの1棟横を歩いた時、霧雨がからだにあたって、1棟の入り口に逃げようと思ったが、止みそうになったのでそのまま直進した。昼は250メートル行こうと思ったが、200メートルを過ぎたら足が痛くなって途中でやめた。
  5日(土)朝1・0キロ昼――――計1・0キロ
      900メートルで帰ろうとしたが、座った椅子に腰をあげたら、1棟の表を歩いていた。
  6日(日)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
      今日は900メートルで精いっぱいだ。

2017-07-30

『悪霊』 ドストエフスキー 小沼文彦訳 筑摩書房


 ドストエフスキーの5代長編小説といわれるものがある。『罪と罰』、『白痴』、『悪霊』、『未成年』、『カラマーゾフの兄弟』。そのうち『悪霊』は第三作目のものである。
『悪霊』のもともとのタイトルは『憑(つ)かれた人々』。春秋社版全集では『憑かれた人々』であった。ところが大正4年森田草平によって『悪霊』と名付けられた。それ以来この訳語が使われている。
英訳では『The possessed』(取りつかれた人々)である。「憑かれた」は新約聖書から取られたようである。『悪霊』のエピローグにはプーシキンが「悪霊のやつが」と書いている。「憑かれたやつらが」というべきところだ。人間があることに取りつかれているという意味であると思える。
 「スタヴローギンの告白」の章で、修道院長のチーホンが《スタヴローギンには「悪霊」が付いている》とか、「私」が《スタヴローギンには「悪霊」のなせる業がある》といっているので、もちろん「悪霊」という言葉はそれなりに通っている。
 
この小説の主人公は誰か。主人公といえる人物はいない。あえていえば小説の最初と最後を飾るスチェパン・トロフィーモヴィッチである。若い時には大学の教壇に立ったこともあるが、今では引退して大学の教壇にあこがれを移している。
 それなら息子のピョートル・スチェパーノヴィッチがふさわしい。スイスから留学して帰ってきたが、スイスでは危ない橋を渡っていた。ロシアに帰って、若者の間では人気があり、5人組を組織して反社会的な風潮を持っていた。しかし世間では鬼才かあるいはうすのろかと、いろいろな評価があり判然としない。
 ピョートルが判然としないなら、彼が一目置くスタヴローギンが主人公だが、小説中でみんなをまとめる大きな存在ではない。登場人物総勢30人ほどの人が、「憑かれた人々」にふさわしいのではあるまいか。

ドストエフスキーは「スタヴローギンの告白」で大きな変革を持ってきたようだが、19世紀中期頃の作品には出版者の拒否にあい途方に暮れたようである。20世紀になって『悪霊』は完全な形になったが、私には「告白」が後の文章とつながりがうまくいっていないと思えた。
 私は「大きな変革」と書いたが、これは「神を認めるか」ということである。チーホンは神を認めるのに対して、スタヴローギンはあいまいなままだ。どうやらここでは引き分けである。最後の方でスタヴローギンは自殺する。チーホンにいわせれば「神を認めなかった」のである。



歩行距離
7月24日(月)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       信号まで59分と調子は悪かった。足をあげて55分を目指そう。
  25日(火)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       今日は昨日よりもっと悪い。交差点まで1時間5分だ。どこが悪いのか分からないが、足が出ない。
  26日(水)朝0・6キロ昼――――計0・6キロ
       雨が降っていると思っていたが、道路はぬれていなかった。これから降るかもしれないのでゴミ置き場を出て100メートルで引っ返した。1棟前を往復して帰った。
  27日(木)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
       昨日と同じ、雨は降っていなかった。300メートルで引っ返した。1棟の南側を通って北側に抜けたら、ポツリと雨が降ってきた。
  28日(金)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       調子が悪かった。足が前に進まないようだ。
  29日(土)朝0・9キロ昼0・4キロ計1・3キロ
       調子の悪いのが続く。昼は2棟横に。
  30日(日)朝0・45キロ昼0・25キロ計0・7キロ
       1棟前を往復した。450メートルだから交差点と同じだ。タイムもほぼ同じ。速くならないな。昼は投票所へ行った。公園から投票所に入る時、係の女性が付いてくれた。投票所の入り口に小さな坂道があるのだが、公園と坂道の間に1センチほどの落差がある。見渡せば奥の方が0・5センチと落差が低い。そこを何とかしのいで投票所に入った。帰りはエレベーターがあると言ったが、裸足じゃないと駄目だと言う。仕方ないから車いすに乗った。係の女性はストッキング姿だ。申し訳なかった。彼女にお礼を言った。

2017-07-23

「備えよ」とあおる政府


 東京新聞の7月19日「私設 論説室から」に〈「備えよ」とあおる政府〉が載った。北朝鮮のミサイルに避難しろと言うものだが、私にはどうも避難訓練が納得いかない。北が日本全土に向かってミサイル訓練を行っているわけでもないし、誤って日本に落ちる可能性があるにしろ、その可能性は低い。
 日本が北朝鮮に圧力をかけようと言うのなら、日本全土にミサイルを避難する場所と言うのはお門違いだ。東京新聞の「私設」を掲げる。

 「Jアラートで緊急情報が流れたら、慌てずに行動を」。弾道ミサイルの落下に備えるよう呼びかける政府広報が先月23日、新聞各紙に掲載された。
 この日は東京都議選の告示日。「危機が迫っている」とあおり、時の政権の求心力を高める手法は、古くから政治のイロハのイ。それにならったのかは不明だが、結局、自民党は歴史的大敗を喫した。
 北朝鮮は、米国に攻撃されたリビアやイラクの二の舞にならないよう強力な抑止力を持てば、米国との交渉に臨めるとして核兵器とミサイル開発を進めてきた。度重なるミサイル発射は米国へ向けたメッセージである。
 そのミサイルがなぜ、日本に落ちるのか。政府の説明はゼロに等しい。
 教えてほしい。米国による北朝鮮攻撃が迫っているのか、1兆4千億円かけた自衛隊の迎撃システムは無力なのか、原発に被害が出た場合、どこへ避難するのか。
 北朝鮮はわが国同様、軍事行動の対象は軍事目標のみとするジュネーブ条約第一追加議定書の締約国だが、日本政府は民間施設への落下を想定して警戒を呼びかける。
 何の説明もないまま、「ミサイルに備えよ」との政府広報はテレビCMに進出した。自治体による避難訓練も続出している。北朝鮮に対する政府方針は「対話と圧力」。圧力を国内に向けてどうするのか。(半田滋)


歩行距離
7月14日(金)朝0・8キロ昼――――計0・8キロ
       今日は交差点の方へ坂道を上り、少し下って400メートルまで行った。慣れていると言っても、かなりつらいものだ。
  15日(土)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       ポストに行こうとした。2棟の向こうまで行くか、それとも交差点の方へ400メートルから、もう50メートル行ってポストに着くか、どちらにしても往復100メートルだ。交差点を選んだ。この時間は車がほとんど来ない。道々休憩しながら家までたどり着いた。
  16日(日)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       450メートル行こうとした。ゴミ置き場から交差点の方に行ったが、体の調子が良くない。途中で帰ろうと思ったが、坂の頂上まで来たら交差点までいく気になった。450メートルを普通に考えたらいいようだ。
  17日(月)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       あまりタイムは出ないが、0・9キロに慣れた。
  18日(火)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       昨日は海の日だったが、今朝はどんな具合かと思ったが、行きの交差点までは実に車が少ない。帰り道、少し車が出てきたが、右の坂道に車を送ると、と言うか、車をやると、あとは団地まで昼間と変わらない。
  19日(水)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       少しはタイムが出たかなと思ったが、5日間同じだ。交差点まで1時間。もうちょっと速く、1時間を切りたい。
  20日(木)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       交差点に行くまでの坂道で足が動かなくなり、そのまま引っ返し今度は2棟の横に回った。駐車場の外れまで行ってそのまま引っ返した。そしてゴミ置き場の横で休憩して1棟の南側を回ってゴールした。平地だから足は何ともなかった。
  21日(金)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       今日はまた交差点まで行った。行きは並みだが帰りは幾分速かった。同じくらいの男の人が、今日は速いねと言った。そうですかと答えたが、目安になるところで時計を見たら、100メートル10分切っていた。明日が楽しみになってきた。
  22日(土)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       交差点の信号はまだ渡れない。横断歩道を渡っても途中で信号が変わってしまうからだ。ちょっと駆ければいいじゃないかと思うだろうが、いくら足をせり出しても相変わらず横断歩道の中だ。
       前に東戸塚で信号を渡った。信号は1回で大丈夫だった。そのつもりで横断歩道を渡ったら中間地点の手前で信号が変わってしまった。信号が3回必要だった。あまり車が来ないのでせっせと歩いていた。
       この横断歩道と東戸塚のそれとは、東戸塚の方がいくらか広いようだ。
  23日(日)朝0・9キロ昼0・5キロ計1・4キロ
       朝は信号の手前と帰りのゴミ置き場の2カ所にした。2棟横と1棟の南側を歩いた。



2017-07-13

3階の風景


3階に上って周りの風景を撮影した。
写真を拡大できます。

3階1

3階2

3階3

3階4

3階6

この道路の向こう側に2棟から4棟までがある。

歩行距離

7月3日(月)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
      相変わらずだが、タイムが少し欲しい。昼は気温があまりにも高いのでやめた。朝は富士山が上半分だけ見えた。
  4日(火)朝0・7キロ昼0・65キロ計1・35キロ
      富士山がうすぼんやりと見えた。
  5日(水)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
      富士山の上半分が見えたが、6時ごろには雲で見えなくなった。3日、4日も同じだ。昼は気温が高かった。
  6日(木)朝0・7キロ昼0・65キロ計1・35キロ
      300メートルちょっとの地点で、交差点の方へ行ってみようかなと思うのだが、なかなか思いっきりが付かない。坂がちょっときついのだ。土曜日なら車も少ないので、と思ってしまう。
  7日(金)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
      昼はまた暑そうだ。
  8日(土)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
      交差点までの350メートルがなかなか実現しない。
  9日(日)朝0・75キロ昼――――計0・75キロ
      交差点までの350メートル、やり遂げた。坂道はきついが、車も来ないのでゆっくり行けた。最後は1棟の南側。150メートルより少しあるようだ。
 10日(月)朝0・75キロ昼――――計0・75キロ
      平日でも交差点方面の350メートルは大丈夫だった。
 11日(火)朝0・75キロ昼――――計0・75キロ
      帰りの150メートルは少しタイムがかかった。昼は階段を6周した。
 12日(水)朝0・75キロ昼―---計0・75キロ
      次は800メートルを目指そう。
 13日(木)朝0・75キロ昼――――計0・75キロ
      まだ350メートルがいっぱいだ。






























2017-07-02

「腹をくくったメルケル氏」


〈「左手に刃物、右手に血が滴る『自由の女神』の首を持つ」― アメリカ大統領就任後間もなく、ドイツの週刊誌シュピーゲルが表紙に掲載したトランプ氏の戯画だ。〉
 「論説委員のワールド観望」を書いている熊倉逸男の最初の文章である。それにしても世界の政治家をこれほどはっきりと批判しているのは、日本ではまずない。
 さて熊倉は次の文でトランプとドイツとの価値観を見比べる。〈人権に無神経な差別的な言動、環境よりも経済優先、国際協調よりも米国第一主義―ナチスへの反省から戦後ドイツが大切にしてきた価値観とは真逆な主張を繰り広げるトランプ氏に対する、ドイツ人の強い嫌悪感がにじみ出ているかのようだった。〉
 トランプ氏のG7サミットなどを述べたあと、熊倉は次のように書く。〈ドイツのメルケル首相は「他者に頼り切りになる時代は終わりつつある。欧州人は自ら自分たちの運命を決めなければならない」と表明、トランプ氏の米国とは距離を置き、ドイツ、フランス中心の大陸欧州の主体性を重視していく考えを明確にした。〉
 独仏が米国と一線を画すのは初めてではない例をあげたあと、熊倉はいう。〈メルケル氏は「再生可能エネルギーは経済にもチャンスをもたらす。最大の経済大国(米国)が離脱すれば、その分野を中国に譲ることになるだけだ」とトランプ氏に協定残留を訴えたが、翻意させられなかった。〉
 旧東独育ちのメルケル氏にとって米国は、欧州に自由をもたらしてくれた信頼できるパートナーだったが、トランプ氏に対する不信は決定的になったと熊倉はいう。最後に7月にハンブルクで行われるG20首脳会議を見据えながら、〈メルケル氏は腹をくくったようだ。異形となった米国とどう付き合っていくか。問われているのはドイツだけではない〉、と結んでいる。


歩行距離
6月26日(月)朝0・7キロ昼0・6キロ計1・3キロ
       家まであと100メートルと言うところで、1棟の表を通って玄関に向か         う通りを選択した。合計700メートルになる。これからはこの道でいい。昼は630メートルと思ったが、300メートルでやめた。
  27日(火)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       雨が降っていたので、1F、2F、3Fの軒下を歩いた。昼は2F、3Fの軒下を歩く。
  28日(水)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
       雨。朝も昼も1棟の1F、2F、3Fを歩いた。
  29日(木)朝0・7キロ昼0・65キロ計1・35キロ
       100メートルを9分台で歩いた。おかげで700メートルが危なっかしく、足を踏ん張った。昼も途中まで9分台だ。
  30日(金)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
       雨だから1棟へ。100メートルを10秒切ったけど、後半はばてたようだ。
7月1日(土)朝0・63キロ昼0・4キロ計1・03キロ
      ちょうど帰る頃に雨が降り出した。1棟の軒下に避難、止まないなと思っていると、我が家の玄関前で日が差してきた。午後もこれから200メートルと言うところで降ってきた。5時半ごろ富士山の5合目から上が見えた。雪が5合目まで白い線となって、4本ぐらいかな、きれいにはえていた。
  2日(日)朝0・7キロ昼0・65キロ計1・35キロ
      朝も昼もまずまずだ。

2017-06-25

草刈り




 写真でこんなにぼうぼうになったとブログで報告したら、次の日に植木屋が来て、5人ぐらいいたか、雑草を刈ってしまった。土が茶色っぽい。

621 no1 001


歩行距離
6月19日(月)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       休憩を入れて1時間30分前後だと言っても自慢にならない。100メートル10分で行かなければ。午後は500メートル行った。300メートルで少し苦しくなったが、まずまずのタイムだ。
  20日(火)朝0・63キロ昼0・5キロ計1・13キロ
       30メートルはいつものコースからちょっと行って、上りの道路とこちらの道が交差するところまでだ。以前の飛び上がる感じから、今は左右で一休み、それから左右と続く。タイムが100メートル11分から12分。これが10分くらいになるといい。
       午後は体調が良くない。同じタイムだ。
  21日(水)朝0・2キロ昼――――計0・2キロ
       雨が降らないようにとゴミをもって出掛けたが、同じ棟のおばさんが、とうとう降ってきましたねと言った。外に出るとポツリポツリと雨が落ちていた。ゴミを出して帰りは軒の下を歩いた。雨は止んでるみたいだった。
       昼は雨と風のため中止。
  22日(木)朝0・63キロ昼0・5キロ計1・13キロ
       朝も昼もタイムはこれからだ。
  23日(金)朝0・63キロ昼0・5キロ計1・13キロ
       朝はタイムがいまいちだが、まずまずだ。1棟からコンビニへ行く人が、帰りの富士山の見える駐車場で休んでいたら、1棟からコンビニへ行く人と出会い、ゴミ置き場でまた5分休んでいたら、さっきの人がまたあったと言って通り過ぎた。いろいろな人がいる。
  24日(土)朝0・63キロ昼0・6キロ計1・23キロ
       少しずつタイムが上がったが、100メートル10分はまだまだだ。昼は100メートル増やして600メートル。500メートルのところがきつかった。
  25日(日)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝は雨が降っていたので、1階と2階の軒下を歩いた。昼は雨が上がったので1棟前2周した。400メートルだと楽な感じがする。

2017-06-19

ベランダからの眺め


庭にはいろんな花が咲いている。葉の上に白い花が咲いているのや、白い小さな花が葉の上に寝転んでいるようなもの、タンポポみたいに黄色い花が伸びて咲いているものなど図鑑を見れば名前がわかる、そんな花がある。
 草だけの葉もある。太い葉で先がとんがっているのや細い葉で先がとんがっているもの、葉が堂々としているものもある。花が咲いているものを含めて7あるいは8種類はあろうか。 現在の庭の様子を写真に撮ってみた。

001.jpg





ここに去年のブログがある。どう違うだろうか。
「 ベランダに続く庭には雑草がところ狭しと植わっており、5月6月ともなれば1メートル以上もあろうかと思われるほど雑草の畑となる。3月の末、この団地に下見に来たとき、雑草はせいぜい20から30センチぐらいであった。まだ庭が何もかも見えた。
 庭の真ん中から少し垣根寄りにハナミズキがある。これだけが4,5メートルばかりの高さで悠然と植わっている。あの根元に青いシートを敷いてビールでも飲んでみたい心境だった。
 今や6月、ベランダから1メートルくらいは20センチくらいの草が生え、風に乗ってベランダの立て棒にくるみついているが、そこから先は草が伸び放題、名前も知らない雑草が背を競っている。(略)」
 去年は1・5メートルか2メートルまで成長し、葉が真っ直ぐの背から出て、風に揺られて行ったり来たりするさまが、これほどの雑草はあるのかと怪しんだものだ。
 今年は2週間もしたら「雑草狩り」が行われるか。


歩行距離
6月12日(月)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       朝昼とも昨日よりは苦しかったが、タイムが少しいい。
  13日(火)朝昼 1日雨だった。
  14日(水)朝0・4キロ昼――――計0・4キロ
       ゴミ出しと病院へ行くため、合計して歩いた距離は400メートルだった。
  15日(木)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       全体にタイムが良くない。
  16日(金)朝0・6キロ昼――――計0・6キロ
       帰りにゴミ置き場の隣に着くとホッとする。昼は暑いから家で柔軟をした。
  17日(土)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       いつも400メートルで休憩している時に会う人が、交差点を左に曲がったコンビニで買い物をして、戻ってくるとき、小生は相変わらず400メートルで休んでいた。これは良くない。昼は両足を交互に上げる練習をした。右足、左足で一呼吸、また右足左足と言う具合だ。100メートル16分から17分だったものが11分に短縮した。明日はこれで行こう。
  18日(日)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       さすがに速かった。とはいっても100メートル10分は切れないが。朝いつも買い物に行く人が、今日は速いですねと言った。昼は前のコースで500メートル行こうかと思ったが、気持ちが折れてしまった。

2017-06-11

『その前夜』 ツルゲーネフ 湯浅芳子訳 岩波文庫


 ツルゲーネフは生涯に6つのロマンを書いたが、『その前夜』は3番目のものである。批評は主人公がブルガリア人であることにあった。ロシア人ではなぜいけないのか、という疑問があちこちで上がった。それに対してツルゲーネフは語っている。
 ある少女がブルガリアの志士カトラーエフと知り合い、二人してブルガリアに旅立ち、その後カトラーエフはかの地で死んでしまった。恋愛のいきさつはカトラーエフの手記に書かれていて、『その前夜』の中に生かした、とのことだ。
 ブルガリア人インサーロフは残念ながら描き方に見劣りがして、十分に生きていない気持ちがする。ロシアを立つ前から病に侵され、いざ渾身の力をもってブルガリアに行ったが、かの地の友人たちと情報をもたらすこともなく逝ってしまう。
 『その前夜』の中で、エレーナは特別の存在である。ツルゲーネフはいつも女性はすぐれてよく、作者自身一種の陶酔を持って書かれているが、この物語でも生き生きと描かれている。エレーナこそロシア文学の永遠の女性であるといえよう。
 インサーロフの恋人としてロシアに現れインサーロフの病気に付き合い、家族の反対を押し切りブルガリアに向かった。インサーロフは逝ったが、自身は看護婦として戦地に赴く。彼女の知らせは誰も受け取っていなかった。
 『その前夜』は社会が発展してゆく「前夜」であるが、エレーナとインサーロフがヴェネチアに旅をする描写に違和感があった。特にオペラに関しては病気療養中のインサーロフにとってかわいそうな感じがしたのも事実だ。


歩行距離
6月5日(月)朝0・4キロ昼0・2キロ計0・6キロ
       久しぶりに400メートルだ。200メートルの駐車場の前で休憩。それから帰る。
昼は2棟の横に行こうと思ったが、残念ながらゴミ置き場で終わりにした。やはり午後は良くないか。富士山が見えた。てっぺんは一筋の雲がかかっていた。6月ともなると5合目から下は雪がない。
6日(火)朝0・4キロ昼0・3キロ計0・7キロ
朝は休み休みなら500メートルや600メートルは行けそうだ。昼は300メートルで精いっぱい。200から300メートルが足踏みしている感じだ。
7日(水)朝0・5キロ昼0・4キロ計0・9キロ
朝は休み休みだが250メートルまで行った。帰りにゴミ置き場の横で休憩していると108の人が、脳梗塞だと女性の場合左半身が不通になるそうだねと言った。女性でも男性でもどちらかが効いているのか意識したことはないが、本当なのかな。
昼はいつもの道とは変えた。こちらも休み休みだが400メートルを歩ききった。
   8日(木)朝昼 雨でナシ。
   9日(金)朝0・5キロ昼0・1キロ計0・6キロ
       相変わらずゆっくりだが、休みは300メートルと400メートル。まずまず。昼は玄関を出たらカンカン照り。帽子を持ってきてないのでやめた。
  10日(土)朝0・5キロ昼0・22キロ計0・72キロ
       土曜だと思って一生懸命歩いたが、250メートルで精いっぱいだった。昼は2棟の裏へ行こうと思ったが、道路を渡ったところで風が強く引き返した。
  11日(日)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       朝は久しぶりに300メートル行った。八百屋の前の坂はきつい。でも左から車が坂を上ってくるのに比べたらきつい坂とは言えないか。朝も昼もまずは快適と言えるが、タイムが相変わらず伸びないな。

2017-06-04

「マーク・トウエン短篇集」 古沢安二郎訳 新潮文庫


 マーク・トウエンは幼年時代の冒険『ハクルベリー・フィン』や『トム・ソーヤ』で私の胸が高まった覚えがある。今は短篇集だ。はじめから読んでいって、いつか紹介できる短編があるものと思っていた。ところが残念ながらそうはいかなかった。
 『実話』は『ハクルベリー・フィン』の黒人の性格とその話し振りを彷彿させるために選んだと訳者は書いている。「聞いたまま一語あまさず収録した話」とタイトルの横にただし書きがある。
 さて『エスキモー娘のロマンス』はこの短篇集ではましな方かもしれない。「現実にたいする彼の痛烈な、ユーモアにあふれた皮肉の代表作品である」と解説者は書いている。物語の主人公は20歳のエスキモーの娘である。
 彼女はたまたま家に来た遠い部族の男に惚れてしまった。彼女の父親もその男に気を許し、その家の宝ともいうべき釣り針を見せてあげた。男は釣り針を見て仰天し、素晴らしいと叫びごえを上げた。
 みんなが寝室に引き上げようとする頃、父親は驚いた。22本あった釣り針が1本抜けていたのだ。さっそく全員を集め、部族の男を逮捕した。この男しか考えられなかった。娘は必死に男をかばおうとしたが、無理であった。
 部族の男が殺されたとき、娘の髪に釣り針があった。娘は驚き、父親は部族の男に頭を垂れたのである。


歩行距離
5月29日(月)朝昼―――― 
        玄関を出て少し出かけたけど、隣の家の前で引き返した。どうも右足の調子が良くなかった。
  30日(火)朝――――昼0・1キロ
        朝は玄関を出て洗面所の窓を見ながら、自分の家の前を4周した。昼は郵便受けまで行って帰った。途中で2階のおばさんに会った。よくやるわねというから、右足が上がらず前にも出せず困っているといった。それでも寝たきりになるより歩く方がいいのよといって、その調子とはっぱをかけていた。
  31日(水)朝0・1キロ昼0・1キロ計0・2キロ       
昨日は郵便受けだが、今日は5メートル先の出入り口まで行った。帰りも何ら不都合もなく家に着いた。昼も同じ。ゴミ箱まで行けないものかな。
6月1日(木)朝0・15キロ昼‐―――計0・15キロ
       朝は105まで行って、そこで引き返した。行きと違って帰りは何回も休む。初めてだから仕方ない。昼は休む。粗大ごみの整理で忙しかった。
  2日(金)朝0・2キロ昼――――計0・2キロ
       朝ゴミ置き場まで行った。そこで10分休んだ。15分くらいかもしれない。懐かしい場所だ。帰りは途中で休んで家までついた。午後は友達が来たので休み。
  3日(土)朝0・2キロ昼 階段
       朝は鏡の割れたものをもって家を出た。中間の郵便受けまではよかったのだが、道路からゴミ置き場までがきつい。新聞紙でくるんだ鏡を5,6回は持ち直しただろうか。鏡をそーとおいて10分休む。帰りは中間点でちょっと休み、家まで帰る。
       昼は階段を3周。右足の上りと下りが辛い。富士山がきれいに見えた。
  4日(日)朝0・3キロ昼――――計0・3キロ
       朝は距離を延ばして150メートルまで行った。前に会った男の人がやあといった。時間がもっと早いんですかと尋ねた。私は距離が伸びず今日やっと150メートルまで進んだと答えた。
       昼はナシだが、片脚たち、座って片脚上げ、座って太もも上げをおこない、あとは20分足のマッサージをする。

2017-05-28

『さようなら、私の本よ』  大江健三郎  講談社


 2005年9月の発行だから、購入したのもその近くだ。それまで本はしばらく買っていない。『さようなら、私の本よ』は私の最後の本といっていいだろう。その本を開けたら、裏の扉に私のメモがあった。
 何が書いてあったのか。例えばこうだ。いまのおれときみの、垂直と水平の対峙をさ、予言的に書いてたよ。椿繁の言葉だ。垂直と水平の対峙とは何か。この本の冒頭、まさに1ページ目だ。
 椿繁が垂直、長江古義人が水平の思考の持ち主といっても、何をいっているのか分からない。順を追って読んでいくと、垂直と水平の対峙がお互い思考のあり方が分かって来るが、そのような理解が役に立つと言えばそれまでだ。
 また次。胸のうちに「小さな老人」が住みついていることを認めた。(省)もうこの詩は自分の内に根をおろしているのであり、(省)その行く末で、もし次の一節を、真に自分のものと受けとめる日が来るならば・・・
年あらたまり春を待ちて 猛虎キリストは来りぬ。
 そのように憐れな期待をして涙を流しながら、十五年たっても、
年改まりて猛虎は躍り出づ。呑滅す、われらを。(注;呑はドン)
という経験はすることなしに、いまはもう無信仰の小さな老人そのものだ。胸のうちは、あのように酔って泣き、遠くにあるものへかきくどくようでもあった、五十代初めよりもっと荒涼としている、そう古義人は思った。
呑滅とはどのような意味だろうか。呑は引くという意味だから「引いて失くす」か。「われらをなくしてしまう」。いずれにしてもよく分からない。
 大江健三郎は今まで難しい言葉を使っていない。しかしこの本に限っては難しい単語が多い。
 『さようなら、私の本よ』で、「さようなら・・・」を使っているのは引用文を含めて何か所かあるが、私が採用したいのは次の話だ。大江は大量の本を庭に作った燃えカスに入れて燃やし続けた。その本の中にたくさんのメモがある。自分の書いたそのメモを捨ててしまった。それが「さようなら、私の本よ」である。


歩行距離
5月22日(月)朝0・6キロ昼0・2キロ+階段5周計0・8キロ
        帰りがうまくいかない。焦っても結果は同じだ。昼は暑いので1棟前200メートルと階段を5周した。
  23日(火)朝0・6キロ昼‐―――計0・6キロ
        まあ、ゆっくりといってもうまくいかない。あとは友達が来て相模湖へいった。
  24日(水)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
        朝昼ともいつものようにこなす。いつものようにが悪い。足が上がらない。何とかタイムをちぢめたい。
  25日(木)朝0・4キロ昼0・2キロ計0・6キロ
        朝は雨だったので1棟のひさし伝いに2周した。2階に住んでいる男の人は、もう行ったんですかといった。雨だからと答えると、ああ、なるほどといってバス停の方へ歩いて行った。昼は1棟の道を1周した。
  26日(金)朝0・2キロ昼0・2キロ計0・4キロ
        朝はゴミを出した。右足が利かなくて左足が何だかそっと歩いているみたいだ。昼も中央の出口が辛い。
  27日(土)朝0・2キロ昼‐―――計0・2キロ
        家のなかも歩くのが辛い。昼は足のほぐしと片脚上げを行う。
  28日(日)朝昼‐―――
        ともに足の運動を行う。

2017-05-21

『ふらんす物語』 永井荷風  新潮文庫


 永井荷風は若いときアメリカとフランスに仕事で滞在した。フランスには11か月ほどである。このときの話を『ふらんす物語』としてまとめた。主としてリヨン、パリが物語の中心であり、年月は2,3年といったところ。
 『ふらんす物語』としている以上、主人公は永井本人ではない。とはいってもどこまでが永井でどこまでが永井ではないか、見当がつかない。リヨンの街中を一人で歩き回り、あるときは女性を連れてレストランに入る。まれにみる優雅な姿だ。
 パリもまた永井の.好みを超えている。どこへ行っても彼なりの場所を得ている。しかし「雲」を見てみよう。(六)で郵便が来ていた。以前妾にした女の手紙だ。半月あまりの大病で、頼る人はなし、食べるものもないという。本当だかどうだかわからないが、万一死んでしまったら自分を恨むかもしれない。あれこれ考えたが、不決断のうちに眠ってしまう。
 翌日会社に出勤するとまた手紙だ。アメリカの女からだ。新開地で風土病に冒され、瀕死のみぎりに、最終の祝福を昔の恋人に送るとのこと。彼はアメリカにいるときこの女と同棲した。彼がフランスに渡るとき泣きついたという女だ。
 色香の失せた女の零落してゆく末路のさまが、彼の眼にありありと浮かんだ。彼はこの女もあの女も一度別れると決めたら、もうそれ以外目に入らない。繁華街で町の女の姿を見ると、彼は彼女たちに見つからないように避けて通った。
しかしそれでいいのか。永井が中年老年、日本で何をしたかは問わない。青年時代、アメリカとフランスで女から涙で訴えられる姿を見て、気が咎めないだろうか。そんなことは気にせず、彼は女、女を求めて行く。

歩行距離
5月15日(月)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
        超スローではないが100メートル13秒と遅い。休憩した後の1号棟前のタイムは12秒だった。昼は400メートルで1棟のゴミ置き場横で休憩した。全般に朝から今まで人通りが少ない。
  16日(火)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
        朝は100メートル13分ちょっと。ゴミ置き場の横で休憩していたら、近所のおばあさんが、いつも歩きますね、どこまで行くんですかと声をかけてきた。この道路と下から上がってくる道路がぶつかるところまでと答えた。歩くのは運動ですよと言って帰って行った。
        昼は300メートルと400メートルの間が辛い。平坦な道なんだが。
  17日(水)朝0・6キロ昼――――計0・6キロ
        600メートル歩いて家に帰り、病院へ行くため着替えた。
  18日(木)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
        12時前に家を出たら200メートルを超えたところで雷が鳴った。と思ったら大粒の雨が降ってきた。急ぎ4号棟の軒下に移動した。10分ほどで雨は止んだ。駐車場を一回りして300メートルを過ぎたらまた降り出した。今度は大木の下で雨宿り。それほど強くなく止んだので歩き出した。ところが350メートル付近でまた雨。しとしとと弱い雨だ。駐輪場も外側だから入れない。駐車場を回って元の場所に出て一生懸命1号棟へ向かう。もう雨は止んだ。1号棟の入口から軒下を100メートル歩いた。
  19日(金)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
        またタイムが遅い。100メートル15分くらいか。右足が上がらないが、そういう問題ではなさそうだ。全体的にすべてのからだが上がらないようだ。昼も同じ。
  20日(土)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
        朝昼昨日と同じ。
  21日(日)朝0・6キロ昼0・2キロ計0・8キロ
        朝は昨日と同じだ。昼は気温が大分高くなったので200メートルにした。

2017-05-14

『「かもめ」評釈』池田健太郎 中公文庫


 「かもめ」の全訳があるだけではない。ある役者の、あるいは役者同士のセリフが1ページまたは2ページ続くと、訳はそこで切れ、訳者の1ページ分かそこいらの解説がつく。それが第4幕まで延々と続く。
 こんな本は見たこともない。芸術選奨受賞作である。解説によると宇野重吉が「かもめ」を題材にして同じような本を出しているが、ロシア語文学研究者の側からいえば、テキストの読みのうえで疑問点が数多くあるそうである。
 「かもめ」評釈の一例を示そう。第4幕のほとんど終わりに近いところ。ここはトレーブレフとニーナとの会話で、重要な場面なので本文8ページを使っている。トレーブレフとニーナとの会話のずれ。この2人は永久に愛し合えない。
 「ニーナはこの2年間にトレーブレフが通らなければならなかった精神の危機も知らなければ、彼が彼女に自分の唯一の救済者の役をふっていることも知らない。一方トレーブレフはトレーブレフで、ニーナの意識の中に住みついたかもめの幻影、その強迫観念のことを知らない。」
 二人には愛し合えないズレである。ニーナは馬車に乗って次のありきたりな公演へ行く。トレーブレフは愛するニーナに別れを告げ、ピストル自殺をする。二人にとって忘れようにも忘れられない過去の記憶である。
 池田健太郎はニーナの中に「かもめの幻影」が住みつづけていると書いたが、かもめは重要な1羽だ。そのかもめを「わたしはかもめ」ではなく、「わたしはあのかもめ」と注意書きで添えている。これも見過ごされがちな訳である。
 

歩行距離
5月8日(月)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       足が上がらないままでも600メートルはまあまあだ。昼は1棟前の駐車    場の道路を400メートル歩いた。2棟前を行くのとどちらが楽か。こっちの方がいいか。
  9日(火)朝0・4キロ昼0・5キロ計0・9キロ
       朝は1棟前を2周した。調子はおかしい。昼には回復した。1番いい感じかもしれない。
 10日(水)朝0・2キロ昼‐―――計0・2キロ
       朝は雨が降っていたが、7時ころには止んだようだ。そこでゴミを出しに行った。50メートルを出て表に出ると、地面の水たまりにポツンと雨が降り出した。前へ戻って家に帰るか、1棟の横を歩いて最後は我慢してゴミ置き場に行くか、雨を顧みずこのままゴミを捨てに行くか、3通りの案が頭をよぎった。雨を顧みずに行こう。すると雨は止むどころか大粒になりだした。あれ、足が利かなくなった。右足をベタとつけて左足を踏む。7,8分、それで我慢してゴミ置き場に着いた。
       帰りは水たまりのある通りをなんとか避けて、1メートルの坂を過ぎ1棟の横を歩いた。相変わらず足がベタと路面にくっつく。最後の50メートルに着きもう一息というとき、10メートル先に猫がいた。毛づくろいをしている。こっちを見た。私は一気に歩けないから9メートル、8メートルと歩いて行った。猫は10メートル先に行きまた毛づくろいをした。私が歩くと猫はもう一度先へ行って毛づくろい。どこまで行くのかと歩きながら見ていたら、最後は部屋の角を曲がってしまった。あの黒い猫は庭にいる黒い猫と同じではないかな。
       昼は雨。
 11日(木)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       超スローペースだが、朝も昼もまずまずだ。
 12日(金)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       スローペースだと思っていても超スローペースだった。100メートル15秒くらい。13秒だと思っていてもなかなか難しい。昼も超スロー。休んでたら、もうやめなさいと買い物に行く2階のおばあさんが言った。日差しが照りつけて本当に暑い。 
 13日(土)朝0・2キロ昼――――計0・2キロ
       7時ころゴミを出しに行こうとしたら、突然雨が降り出した。今まで雨は何回か繰り返したのだろう。8時に止んだから出してきた。それからはずっと雨だ。
 14日(日)朝0・6キロ昼‐―――計0・6キロ
       朝は調子がいい。100メートル11分から12分だ。なぜだか分からない。途中200メートル過ぎたら、向こうの2階の若い人が、飲みなさいと言ってジュースをくれた。左手は杖を持っているし、ダメですというと、ジーパンのポケットにジュースを無理に押し込んでいた。これではからだが効かないと感じながら、上りと急坂の上りが交差する地点まで行った。そこからUターンして帰った。昼は雨は降らないが天気が悪いので止めた。

2017-05-07

『吉里吉里人』井上ひさし 新潮文庫


 吉里吉里村が吉里吉里国として独立した日、三文小説家・古橋健二は東北本線の小さな駅に下ろされた。ここが古橋健二の吉里吉里国大統領へ行く道の第一歩となったのである。独立第二日にして大統領から首になるまで上中下三巻を必要とした。
 吉里吉里国になるまで、それを取り巻く日本国は大騒動だった。たかが5000人の村に、独立しようというので自衛隊を繰り出した。自衛隊にまぎれて保安要員までを送り出し、一方NHKはこのどさくさがいかに狂人化したものであるか、あの手この手を使って吉里吉里国と日本国民に注意を促していた。
 吉里吉里国は小さな国だ。普通農業に手を出しているが、手を出せない人、要するに介抱を余儀なくされた人々は国の世話をする、つまり国政を預かっていることになる。彼らは頭を使い、国の方々をバスでチェックする。
 医学はこの国の基幹ともいうべき存在で、患者やスタッフ等2000名を要する。なぜこんなに数が多いのか。外国から患者1000名や医師を招いているからだ。もちろん独立前から医学を奨励していた。
 税金の使い道は徹底している。すべて人の手で行われ、税金の取りようがないほど町はきれいなものである。男女平等、セックスはひらけ、自衛のための戦力は持つことを許され、夜会の後のねんねは自由、もちろん言語はズーズー弁である。
 古橋健二はこれらを一つ一つ経験していった。もともと文才のないうえに記憶力も乏しい古橋はこの経験に卒倒に卒倒をかさね、最後は田んぼの娘を嫁にもらうことになっていた。古橋の僥倖だった。そのうえ大統領の切符ももらったのだ。
 ところで吉里吉里国にはそんな金があるのだろうか。江戸時代の金を便所の金隠しに使っていた。古橋はそれを知って、そもそも東北本線の小さな駅に雑誌記者と降りたのだが、その彼に金隠しを教えてしまった。
 上中下の下の最後、吉里吉里国も古橋も日本国の攻撃にさらされてしまったのである。


歩行距離
5月1日(月)朝0・5キロ昼0・2キロ計0・7キロ
       朝は歯医者なので短く歩いたが、調子はよくない。昼は曇って来ていたが、まあ何とかと思っていたが、100メートル過ぎたら雨が降り出してきた。  
  2日(火)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝昼あまり調子が出なかった。
  3日(水)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       朝昼とも超スローペースだ。右足が短いことがはっきりしてきた。どうするか。
  4日(木)朝0・5キロ昼0・5キロ計1・0キロ
       朝昼とも調子はよくない。スローなペースで歩いた。
  5日(金)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       朝はゆっくりペース。昼もまた600メートル行けるかなと考える。実際500メートルしか行けなかった。それも最後の300から400メートルがどうしたのか、足が上がらない。400メートルで一息入れた。
  6日(土)朝0・6キロ昼――――計0・6キロ
       左から上ってくる道路と合わさって信号へ続く道の、歩道が少し広まっているところまでが350メートルだが、残念ながらそこまでは行けなかった。帰りによく会うおばあさんに会った。杖をついている。私から見るとあれならおれの方が速いと思ってしまうが、実は私より2倍も歩き方が速い。転ばないように歩きましょうと言った。ええと答えた。ええとしか口の形が言えないのだ。
       一生懸命歩いても右足が半歩しか進めない。右側の家屋とその先の小さい道まで10歩で行けると思っていても、10歩とは健康な時の話で今は50歩あるいは80歩かかる。しかしそれでいい。だんだん速くなればいい。
       団地の入口で500メートル。ここで10分休憩。いつものおじいさんいやお兄さんが2匹の犬を連れている。暑くなりましたねといった。ここでもええとしか答えられない。休憩中だから私の顔は笑っていた。
       午後は風が強いので階段を上り下りしようとしたが、あまりに強い風なので玄関のドアを開けるのも気が引けた。
       今月6日間連続して富士山が見えた。今日は頂上に雲がかかっていたが、7,8合目まではくっきりだ。
  7日(日)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       朝、人も車もほとんどいなかった。さみしいくらいだ。連休の最後の日曜。途中で休憩し家へ帰る。昼、この間より調子はいい。

2017-04-30

『騎兵隊』バーベリ 木村彰一訳 中公文庫


 バーベリは寡作な作家である。1924年出世作であり代表作でもある『騎兵隊』は220ページの本で、34の短編から成り立っている。比較的長いものでも10ページを超えることはない。発表されると好評を得た。
 1920年バーベリはロスタ通信の特派員としてブジョンヌイ第一騎兵軍団のポーランド遠征に従軍したが、このときの体験にもとづいて『騎兵隊』は書かれており、大部分が「おれ」という語り手の口をとおしている。
 『騎兵隊』のうち34編から一つ選ぶのは難しいが、「ゲダリ」からその内容を紹介する。ゲダリの店は居酒屋だ。おれとゲダリはビールを入れる樽の上に座っている。ゲダリはいう。「いい人間というものはいいことをするにきまったものですじゃ。革命というのは、いい人間のするいいことですじゃ。だがいい人間は人殺しをするわけがない。だから革命をするのは悪い人間ということになる」
 ゲダリは続ける。「今のインターナショナルですと、同志の旦那、いったいなにをつけて食うものなのか、あなたがたにもおわかりにならんでしょう」おれは答える。「火薬をつけて食うのさ。いちばん上等の血をかけてね」
 ゲダリは、―――実現しがたいインターナショナルの創始者は、―――祈禱をあげに会堂へ出かけた。
バーベリは1930年代にはほとんど何も書いてはいない。「規格化された思考を克服し、わが国の文学に新しい思想、新しい感情とリズムとを導き入れたいのです」(1935年、母宛の書簡)彼は沈黙するしかない。1939年、モスクワ近郊で逮捕された。1941年、家族は彼の死亡通知を受けとった。


歩行距離
4月24日(月)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        朝昼とも先週と同じ。何とかしないといけない。
  25日(火)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        朝はあと100メートル行く予定だったが、時間が来てしまった。昼は相変わらずまずい。
  26日(水)朝0・2キロ+階段4周昼――――計0・2キロ
        風が強く歩きの後は階段。昼はもっとすごい風。
  27日(木)朝――――昼0・5キロ計0・5キロ
        風がひどく雨も降っている。玄関から10歩行ったところで引き返した。昼は八百屋の手前、調子はよくない。
  28日(金)朝0・63キロ昼0・5キロ計1・13キロ
        朝はいつもより15メートル余計に歩いた。交番へ行く道と下から上がってくる道が合体するそこまでだ。昼は疲れた。
  29日(土)朝0・7キロ昼0・23キロ計0・93キロ
        久しぶりに交差点までの道と下から上ってくる道の交点を過ぎて、歩道が広いのが終わる点まで行った。350メートルだ。行きについては昨日の交点まで行って、そこで道を渡って広い歩道の終点までだ。昼は300メートルにしようと思ったがすごい風で諦めた。
  30日(日)朝0・7キロ昼0・5キロ計1・2キロ
        朝は昨日と同じ700メートル。土日は800メートル900メートルと行きたい。昼はどうも疲れる。

2017-04-25

非現実的な「敵基地攻撃」


非現実的な「敵基地攻撃」
 私説 論説室から

 自民党の検討チームは北朝鮮の核・ミサイル開発を「深刻な脅威」として「敵基地攻撃能力」の保有を安倍晋三首相に提言した。
 「他に手段がない場合、発射基地をたたくのは自衛の範囲に含まれ可能」(1956年鳩山一郎内閣)との政府見解を根拠にしているが、防衛省はこれまで「自衛隊にその能力はない」と答弁してきた。
 実際には、戦闘機の航続距離を延ばす空中給油機、指揮管制できる空中警戒管制機や精密誘導爆弾を持ち、能力は整いつつある。
 北朝鮮の基地をたたくのは簡単ではない。主要基地は中国国境に近く、攻撃すれば中国を刺激する。2014年以降、北朝鮮は各地から弾道ミサイルを発射、潜水艦発射弾道ミサイルの開発も進み、目標を絞らせない。
 すべての基地を破壊するのは不可能に近く、攻撃目標を探すうちに弾道ミサイルは日本列島に到達するだろう。これを完全に迎撃するのは難しい。敵基地攻撃が未曾有の被害を招くことになりかねない。
 トランプ米政権は北朝鮮に対する先制攻撃を否定していないが、日本や韓国が受ける被害はだれが攻撃しても変わりない。日本がとるべき道は米国に対し「北朝鮮との対話に乗り出し、その過程で核・ミサイルの放棄を求め、見返りに平和協定を結んで北朝鮮に『米国は攻撃しない』という保障を与えるべきだ」と強く進言することである。
(半田滋〈しげる〉)東京新聞4月12日 


トランプ氏共鳴のわけは
私説 論説室から
 トランプ米大統領が、英国の欧州連合(EU)からの離脱決定を称賛し、反EUを主張する欧州の極右や右派政党が、トランプ氏に続けと気勢を上げる。何が共鳴し合うのだろうか。
 ビジネスマン感覚、ではないだろう。EU単一市場からの退場は経済合理性にもとる。
 自国優先、 日本を含め、どの国も自分の国のことを第一に考える。トランプ氏らに限った話ではない。
 共鳴の源は、自国優先にブレーキをかけない解放感ではないか。
 自国優先で突っ走れば、いずれ他国とぶつかる。永遠平和を希求した哲学者カントが言うように「自然な状態は戦争状態」なのだ。
 EUは衝突を防ぐための仕組みだ。多文化共存や周辺国との平和協調を旨とし、国境の垣根を低くして移動の自由を保障する。
 オバマ前米大統領は冷戦時代の対立が残っていたキューバと修好し、イランとも核問題で合意し関係を修復した。自国優先のメンツにこだわっていてはできなかっただろう。
 人に当てはめて考えることもできる。他人を思いやらない「自己中」の行き着く先は反発や憎しみ、差別だ。徹底させ、気に食わない者たちの絶滅を図ったのがナチスだった。
 自己中にブレーキをかけるのは、理性といってもいい。たがが外れ始めた社会の到来に、寒けを覚える。(熊倉逸男)(掲載日不明、ひと月か二月前)


歩行距離
4月17日(月)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        タイムは遅いが、まずまずだ。
  18日(火)朝――――昼階段
        春の嵐だ。雨は止んだので昼は階段6往復。
  19日(水)朝0・5キロ昼‐―――計0・5キロ
  20日(木)朝0・7キロ昼0・6キロ計1・3キロ
        朝は700メートル。ゆっくりだからきつくない。昼は少々きつい。今日の富士山は4月でいちばんきれいだ。
  21日(金)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        700メートルを目指していたが、時間切れ。昼は相変わらずきつい。
  22日(土)朝0・2キロ昼‐―――計0・2キロ
        朝は雨が降ってきた。昼は歯医者。
  23日(日)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
        朝昼ともあまりよくなかった。富士山は頭だけ見えた。

2017-04-20

桜と桜


 庭の奥に、といっても白い垣根の向こう側だが、大島桜が咲いている。前のブログで山桜と書いたが、知人の指摘で大島桜だと分かった。3本はあるかな、かなり大きな木だ。枝が揺れると花も揺れる。白い花は幽玄な感じさえする。
見事なものだ。二階かあるいは三階の人は、手が届く範囲で、大島桜を自宅にそえるのだろう、刈っていった。私の部屋で桜見物と洒落る人がいるので、そんなに折らないでくれよとドキドキしていたが、片手だけいっぱいにして帰って行った。
 この桜の右側にもう2,3本桜があるのだが、大島桜が咲いているのに比べてこっちの方は何の音沙汰もない。枝が箒(ほうき)のように広がっているだけだ。前の団地で見たのだが、害虫で枯れてしまい、その年は害虫退治をした。翌年はまた咲きだしたのである。
 害虫がいるなんてことがあるのかなと思っていると、箒のような枝に葉がつき出して、それとともに花が咲いてきた。白い花だ。運悪く四日間強風と雨でどうなるのだろうと心配だったが、花はびくともしないでまた一輪一輪と咲きだしていた。
 葉はすこし茶色がかっている。大島桜も大きいが、この桜も大島桜に比べて見劣りがしない。てっぺん同士同じくらいの大きさか。この桜の方が葉っぱが一つ出ているか。
今は五分か六分咲きだ。枝が箒のように広がっている。辞典で調べてみると、これが山桜だろう。大島桜は散って五分咲き、山桜は葉が出て五分咲き、何という眺めだ。大島桜と山桜、毎年見られるのだ。
 
 
歩行距離

4月10日(月)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
        朝はまずまずだったが、昼は時間がかかってしまった。
  11日(火)朝昼 きつい雨。
  12日(水)朝0・5キロ昼0・4キロ計0・9キロ
        朝は500メートルだったから昼もと思ったが、400メートルでリタイア―だ。本人ではこの歩きならと、でもダメだった。
  13日(木)朝0・5キロ昼 階段 計0・5キロ
        昼は風が強いので階段を歩いた。3階まで6往復した。
  14日(金)朝0・5キロ昼0・5キロ計1・0キロ
        朝は段ボールを2回運んだので道路に出たら富士山の見える200メートルまでだ。昼は辛いので400メートルで休憩した。
  15日(土)朝昼 ともに風強し。
  16日(日)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       時間がかかったが、マイマイペースで行った。昼も同じだ。

2017-04-09

辺見庸「父の記憶」NHKEテレ


 右手を腹の横に折りたたんで、右足を重く引きずりながら、辺見の故郷石巻の海岸を歩いている。ふらついて倒れそうだが、彼は踏ん張る。海の向こうに何が見えるのか。あの津波の後か。いつかも同じ場所を歩いた。震災はどこへ消えたのか。あるいは消えないのか。
 父の記憶といっても何も新しいことはない。生前、地方紙の記者として中国へ渡った。新聞記事がある。仲間が手ですくって粥を食べろと、中国人母子を笑った。父はもう彼女はしゃべらないよと言って、引き揚げて行った。
辺見庸はふがいないと思う。父がもういいといった後何かが足りない。
 中心が同じで半径が違ういくつかの円が描ける。同心円である。辺見庸が相手にしている50人や100人の聞き手も、辺見庸自身も、そして読者も、大きな円の端っこにいる。円から出ることはない。恐らく円の外にいると思う人は少ない。
その中心付近に中国人母子がいる。彼女を笑った日本人もいる。彼ら日本人は中心からほど近いところだ。辺見庸の場合、父がいた。しかし父は中国を歩きながら、中国人母子について何もいわない。
 90いくつまで生きた父親に辺見庸は尋ねた。今まで何の思い出が一番記憶に残っているのか。父の答えは、学生時代のボート選手。辺見は途方に暮れる。中国の母子はどこにいったんだろう。辺見は父親にそれ以上は聞かなかった。


歩行距離
4月3日(月)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
       平均100メートル10分だった。午後は大いに時間がかかった。
  4日(火)朝0・4キロ昼0・6キロ計1・0キロ
       昼は500メートルからの100メートルがきつかった。
  5日(水)朝0・5キロ昼0・4キロ計0・9キロ
       全体的によくない。
  6日(木)朝昼 風が強くて休む。
  7日(金)朝昼 まったく昨日と同じ。
  8日(土)朝昼 金曜と同様。
  9日(日)朝0・4キロ昼0・2キロ計0・6キロ
       雨だから軒の下を歩いた。朝は400メートルを普通のペース。昼もまた     
       と思ったが、風が強く200メートルでやめた。

2017-04-02


 引っ越して11か月となった。いよいよサクラの季節が満開だ。ソメイヨシノのピンクの花が空一面に広がる。サクラの木の下で花々を見てみたい。そんな思いが頭をよぎる。残念なことにソメイヨシノは振られてしまった。裏庭のサクラの木が山桜だった。
 山桜は枝の葉とともに1輪ずつ白い花が開く。次の日にまた1輪。10日で5分咲きか。それはそれで美しい。満開だと空が1面に白く染まるだろう。葉が花を支えているようだ。ソメイヨシノとは違った趣がある。この山桜は2本だけのようだ。
 裏庭には4本ほどのサクラがあると思った。しかし2本は枝から見てどうもサクラではないらしい。幹がほかの木に隠れて見えなかった。4本なら壮大な眺めになるところだったのに。
 去年の5月、6月のブログで、裏庭が一面の雑草に覆われ、植木屋の職人が早く来ないかなと思っていたが、今年の4月に雑草はほんの一握り、花が咲いているのもある。去年の1メートルを超す雑草は本当かしら。
 花が咲いているのは紫がかったピンクだ。ベランダから見ると50センチぐらいの幅の花々が横は5メートルも咲いていた。花が咲き誇るようだ。ピンクの花は高さ20センチほどだが、もう一種類10センチほど白い花が咲いている。ピンクの花に隠れているようだが、ちゃんと咲いているという姿を示している。
庭中央にハナミズキが一本植わっているが、その回りにも紫がかったピンクの花びらがある。裏庭を一周してみよう。東側に雑草が育っている。南側には山桜が咲いて、その右側に花と間違える赤い葉が緑の葉の間にある。それから大きな椿。花がどぼっと落ちている。西側に先程の赤い葉だ。今が見ごろかもしれない。

 
歩行距離
3月27日(月)朝昼 雨
  28日(火)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝も昼も同じように調子が出ない。どちらも最後の100メートルがきつい。足が上がらなくてふらふらと感じてしまう。
  29日(水)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝も昼も少しはいい。
  30日(木)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝の方が少しはいい。土曜からは500メートルにしたい。
  31日(金)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       明日からは0・5キロずつにしよう。
4月1日(土)朝は雨。昼ごろ止んだので歩きに行ったら、また降ってきた。300メートル。
  2日(日)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       この日は思い切って300メートルまで行った。昼もと思ったが、200メートルで断念した。

2017-03-26

『赤い花・信号』 ガルシン 小沼文彦訳 旺文社文庫

 
解説と年表によれば、ガルシンは1872年17歳で精神病の最初の発作が現れた。1874年展覧会で見たロシアの惨状に魂をゆすぶられたガルシンは勉強を続ける気にならず、1877年義勇兵としてキシニョフへ出発した。
 トルコ軍との戦闘に二度参加した。この戦闘の後、死体埋葬のためガルシンを含めた兵隊が派遣され、死体にまじって、飲み食いもなく死を待っていた兵士が発見された。これがいわば彼の処女作『四日間』のテーマとなっている。
 脚部に負傷したガルシンはハリコフに戻ると、『四日間』の推敲にかかり雑誌に掲載された。ここで大いに推賞されたが、憂愁感は彼を離れず発作を起こしたりしている。やっと軍務を離れ、2,3の作品を発表した。
 モスクワに出てからも強迫観念に縛られ、狂暴性のある患者として精神病院に送られたこともあった。1882年やっと鉄道の仕事に着くことができ、翌年女医と結婚し妻の助けを借りて3編の作品を完成している。
 しかし妻の看護にもかかわらず、神経を悩ますことが多くなった。病勢は悪化する一方であった。1887年悲劇の幕切れである。彼は部屋を抜け出し階段の上へ出ると、発作的に空中に身をおどらしてしまった。骨を折った彼はその後意識を失っていった。
 ガルシンの作品は多くはない。彼の代表作は『赤い花』だ。ハリコフの精神病院に入院中、作者自身の体験をもとにして、当時のロシア青年の悪とたたかい身を滅ぼす一青年の物語である。
 しかしここでは『信号』を紹介する。
 病弱な30ぐらいの主人公はある将校の従卒を勤めてトルコ軍との戦いに加わった。そして遠征から無事に妻のところへ戻ったが、父と息子はすでに死んでいた。体が不自由なうえに家族は妻だけとなって彼は途方に暮れていた。
 そんなときある駅で同じ連隊の将校に出会った。将校に彼の身の上を話すと、線路番の小屋が空いているといった。彼は喜んで受け入れた。小屋の正面の駅をきれいにし、妻は小屋の周りの畑を耕した。
 彼は両隣の線路番と話すようになった。一人はよぼよぼの老人でめったに外へ出ず、かみさんが見回りをしていた。もう一人は若い男だが、いつも汽車のことでぶつぶついっていた。女房も同じようなふくれっ面だった。
 隣の男は全然給料が上がらない。主人公はなだめにかかる。そんなとき主人公は金梃子でレールを外している男が逃げたのを見た。線路の向こうには汽車がやって来る。工具を取りに小屋まで行く暇がない。工具から赤い切れを取り出して汽車の前に立った。
 主人公と汽車が近づいてくる。彼は赤い旗を落としてしまった。そのとき赤い旗を拾い上げて汽車を止めた男がいた。それは逃げた隣の男だった。


歩行距離
3月20日(月)朝 400メートル。昼 階段上り下り三階まで5セット。歩き200メートル。距離はこなしたが、歩きはメタメタだ。
  21日(火)朝 200メートル。昼は階段をと思ったが、雨で中止した。
  22日(水)朝昼 病院行きのため休み。
  23日(木)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
        朝昼400メートルのうち昼の400メートルはきつい。200メートルで休憩だ。これをなんとかせねばいかん。
  24日(金)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
        400メートル40分だ。昼は45分。もっとタイムを上げなくては。
  25日(土)朝 0・4キロ昼 0・4キロ計 0・8キロ
        どうも速く歩けないなあ。
  26日(日)朝昼 雨

2017-03-19

『至福千年』 石川淳 岩波書店


 井伊直弼が死んで、8月18日の政変(七卿落ち)、禁門の変(長州逆賊)が終わり、「ええじゃないか」が大流行したが、冬峨は神戸から船に乗って留学に出、松太夫は関西へ商売に出かけた。一方一角は彦一郎を相手に松太夫が留守にした相生丸を乗っ取ろうとする。
 小説で生き残ったのはこの4人である。冬峨は早くから侍を脱して俳諧に精を出す。松太夫は冬峨を先生として俳諧を志し、一角は松太夫憎しと心臓を狙いたい。彦一郎は全くの政治嫌いで自分の赴くままに剣を握る。
 加茂内記はこの物語の主人公である。神官であるがマリア像を信じていた。江戸の町を乞食や非人で埋め尽くし彼らに十字架を載せようとしていた。ただ内記にはマリア像を信じるほかに、幕府の要職と結託して利を得る野望もあった。
 一角は内記の懐刀として怪物を退治する。どこへでも出入りする早見早聞きの男である。もちろんマリア像を信じた。しかし小説の最後の方で内記の術に疑いを抱き、これを殺すと江戸の町を穢多非人で満たし、そのまま横浜の相生丸を目指した。
 庭木で日本国中に名をはせた松太夫もまた穢多非人に興味を抱き、彼らにキリスト教を授けようとする。松太夫は内記に横着ぶりを笑われ、その弟子十兵衛に内記を取り締まるよう、家の中を厳重にした。
 冬峨は三味線延登喜と一緒に暮らしていたが、所詮こちらも風来坊で最後は延登喜に逃げられてしまう。彦一郎とは縁があってともに暮らすが、冬峨の親切も彦一郎には剣の道同様博打好きで、合わなかった。
 この本には大勢の人間が顔を出しているが、残念ながら多くは死んでしまう。石川淳の小説にこんなことがあるだろうか。「ええじゃないか」に食われてしまったのだろう。


歩行距離
3月13日(月)朝 ゴミを出しに行った。200メートル。昼は曇っていけない。
        団地付近を歩こうとしたが、それもやめた。
  14日(火)朝 小雨だったが、ゴミを出しに行った。昼も雨。
  15日(水)朝 ゴミを出しに行った。何かおかしい。右足がやっと上がり下がりができる程度だ。特に下がりが曖昧で何分かかったか分からなかった。
         昼も止めだ。
  16日(木)朝 ゴミ置き場までが精一杯だった。200メートル。昼は200メートルと同じだ。少しずつ距離が延びればいいが。
  17日(金)朝 300メートル行った。昼はやはり300メートルだ。少しずつ伸ばしていこう。
  18日(土)朝 300メートル。400メートルを目指してもなかなか入れない。昼は階段を上り下りした。3階まで3セット。次の日がどうなっているのか楽しみだ。
  20日(日)朝 300メートル。昼 階段を上り下り。3階まで5セット。まあ、それほどよくない。

2017-03-12

『太陽を曳く馬』髙村薫 新潮社


 高村薫は刑事合田雄一郎の作品を長い間発表し続けていた。しかし彼もこの作品でお終いである。ちょうど2000年9月11日のニューヨークテロ事件のあった年であった。若い僧侶がトラックに轢かれてしまう。捜査の行方も叶わぬまま、合田はこの事件を終わりにして刑事をやめた。
 若い僧侶末永の死について合田は、不慮の事故か自殺かは扱いかねていた。三人の先輩僧侶、若い僧侶の師ともいうべき高名な明円、今は東京郊外で僧侶をしている年配の男、かれらに話を聞いてある結論を出した。
 「長谷川明円は末永和哉に通用門の鍵を渡した。いつどんな時でも、人間は閉じ込められてはならないという理由だ。さらに長谷川と末永は宗教対話を重ねた。対象に向かう限りで現れる私に自由な意思があるなら、それはどのような形で可能であるかについてである」
 このようなものを送られた検事は怒りに達し、末永の死について長谷川は黒と決めつけた。合田は立件できるはずのない事案を立件するという検事の暴言を放置し、警察を辞めたのである。
 警察をやめるという合田の振る舞いは最後を読めば簡単であった。しかしここまで全2巻があるのだが、果たしてそこまで必要だろうか。上巻の殺人事件は関係者が多すぎる。多くの人物が2,3行でいいのに、1ページも2ページも使っている。
 いや、2,3行でいいなら全部カットしてもいい。下巻の最終章は、東京郊外で僧侶をしている年配の男福澤が、殺人犯である子供相手に手紙を出している場面だが、これもカットだ。上巻の3分の2と下巻の最終章はなくなった。
 こんなことをしていたら高村薫は怒るかもしれない。下巻でも難解な言葉がたくさんある。特にオウム真理教に関して三人の先輩僧侶はアラを探し、合田もうなずく。私にはこの章は斜めにページを追っていたにすぎない。
 いずれにしても私がカットしないで残しておいた上巻の3分の1と、最終章を除いた下巻は、並み以上である。


歩行距離
3月6日(月)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       朝はゆっくりで仕方ない。午後は曇って今にも降りそうだ。休みにした。曇っていて富士山は見えず。
  7日(火)朝0・9キロ昼0・7キロ計1・6キロ
       500メートル43分。遅い。ゆっくりだから後の400メートルもダメだ。午後はこれもゆっくり、700メートルでやめた。曇ってて富士山は見えず。
  8日(水)朝0・7キロ昼0・9キロ計1・6キロ
       500メートルは大いにタイムがかかった。昼も同じ。足を大きく出すと時間がかかる。富士山はよく見える。左側は真っ白だが、右側は五合から下は雪がない。
  9日(木)朝0・7キロ昼0・9キロ計1・6キロ
       ゆっくり歩く。富士山がきれいだ。午後はこちらもゆっくり。
 10日(金)朝――――昼0・7キロ計0・7キロ
       夕べ、こたつの横に足がぶつかって、あれよあれよという間にこたつの長い方の端と閉めてあった襖の間に落っこちてしまった。もんどりうったわけだ。背と畳がくっついている。どうしようもなくあれこれ考えた。とりあえず閉めてあった襖を開けて、右足をついて脱出に成功した。腰の後ろが痛い。立ち上がると何でもないが、椅子に座るとダメだ。
       今日は大分よくなった。朝の歩きはお休み。
 11日(土)朝0・7キロ昼0・2キロ計0・9キロ
       直立して座ると少し痛みがある。500メートルを過ぎてポストへ行ったら足が上がらないようになったので700メートルでやめた。富士山は見えず。午後は張り切って家を出たが、足が上がらないので200メートルでやめた。
 12日(日)朝0・7キロ昼0・6キロ計1・3キロ
       朝昼ともゆっくりだ。昼は800メートル行こうかと思ったが、自然と600メートルになった。自然とというのが何か不思議だ。富士山は見えず。娘が来て尾てい骨の痛みを見てもらおうと尻を出したが、何ともないといった。これで痛みも気にしないですむ。