2017-04-25

非現実的な「敵基地攻撃」


非現実的な「敵基地攻撃」
 私説 論説室から

 自民党の検討チームは北朝鮮の核・ミサイル開発を「深刻な脅威」として「敵基地攻撃能力」の保有を安倍晋三首相に提言した。
 「他に手段がない場合、発射基地をたたくのは自衛の範囲に含まれ可能」(1956年鳩山一郎内閣)との政府見解を根拠にしているが、防衛省はこれまで「自衛隊にその能力はない」と答弁してきた。
 実際には、戦闘機の航続距離を延ばす空中給油機、指揮管制できる空中警戒管制機や精密誘導爆弾を持ち、能力は整いつつある。
 北朝鮮の基地をたたくのは簡単ではない。主要基地は中国国境に近く、攻撃すれば中国を刺激する。2014年以降、北朝鮮は各地から弾道ミサイルを発射、潜水艦発射弾道ミサイルの開発も進み、目標を絞らせない。
 すべての基地を破壊するのは不可能に近く、攻撃目標を探すうちに弾道ミサイルは日本列島に到達するだろう。これを完全に迎撃するのは難しい。敵基地攻撃が未曾有の被害を招くことになりかねない。
 トランプ米政権は北朝鮮に対する先制攻撃を否定していないが、日本や韓国が受ける被害はだれが攻撃しても変わりない。日本がとるべき道は米国に対し「北朝鮮との対話に乗り出し、その過程で核・ミサイルの放棄を求め、見返りに平和協定を結んで北朝鮮に『米国は攻撃しない』という保障を与えるべきだ」と強く進言することである。
(半田滋〈しげる〉)東京新聞4月12日 


トランプ氏共鳴のわけは
私説 論説室から
 トランプ米大統領が、英国の欧州連合(EU)からの離脱決定を称賛し、反EUを主張する欧州の極右や右派政党が、トランプ氏に続けと気勢を上げる。何が共鳴し合うのだろうか。
 ビジネスマン感覚、ではないだろう。EU単一市場からの退場は経済合理性にもとる。
 自国優先、 日本を含め、どの国も自分の国のことを第一に考える。トランプ氏らに限った話ではない。
 共鳴の源は、自国優先にブレーキをかけない解放感ではないか。
 自国優先で突っ走れば、いずれ他国とぶつかる。永遠平和を希求した哲学者カントが言うように「自然な状態は戦争状態」なのだ。
 EUは衝突を防ぐための仕組みだ。多文化共存や周辺国との平和協調を旨とし、国境の垣根を低くして移動の自由を保障する。
 オバマ前米大統領は冷戦時代の対立が残っていたキューバと修好し、イランとも核問題で合意し関係を修復した。自国優先のメンツにこだわっていてはできなかっただろう。
 人に当てはめて考えることもできる。他人を思いやらない「自己中」の行き着く先は反発や憎しみ、差別だ。徹底させ、気に食わない者たちの絶滅を図ったのがナチスだった。
 自己中にブレーキをかけるのは、理性といってもいい。たがが外れ始めた社会の到来に、寒けを覚える。(熊倉逸男)(掲載日不明、ひと月か二月前)


歩行距離
4月17日(月)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        タイムは遅いが、まずまずだ。
  18日(火)朝――――昼階段
        春の嵐だ。雨は止んだので昼は階段6往復。
  19日(水)朝0・5キロ昼‐―――計0・5キロ
  20日(木)朝0・7キロ昼0・6キロ計1・3キロ
        朝は700メートル。ゆっくりだからきつくない。昼は少々きつい。今日の富士山は4月でいちばんきれいだ。
  21日(金)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        700メートルを目指していたが、時間切れ。昼は相変わらずきつい。
  22日(土)朝0・2キロ昼‐―――計0・2キロ
        朝は雨が降ってきた。昼は歯医者。
  23日(日)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
        朝昼ともあまりよくなかった。富士山は頭だけ見えた。

2017-04-20

桜と桜


 庭の奥に、といっても白い垣根の向こう側だが、大島桜が咲いている。前のブログで山桜と書いたが、知人の指摘で大島桜だと分かった。3本はあるかな、かなり大きな木だ。枝が揺れると花も揺れる。白い花は幽玄な感じさえする。
見事なものだ。二階かあるいは三階の人は、手が届く範囲で、大島桜を自宅にそえるのだろう、刈っていった。私の部屋で桜見物と洒落る人がいるので、そんなに折らないでくれよとドキドキしていたが、片手だけいっぱいにして帰って行った。
 この桜の右側にもう2,3本桜があるのだが、大島桜が咲いているのに比べてこっちの方は何の音沙汰もない。枝が箒(ほうき)のように広がっているだけだ。前の団地で見たのだが、害虫で枯れてしまい、その年は害虫退治をした。翌年はまた咲きだしたのである。
 害虫がいるなんてことがあるのかなと思っていると、箒のような枝に葉がつき出して、それとともに花が咲いてきた。白い花だ。運悪く四日間強風と雨でどうなるのだろうと心配だったが、花はびくともしないでまた一輪一輪と咲きだしていた。
 葉はすこし茶色がかっている。大島桜も大きいが、この桜も大島桜に比べて見劣りがしない。てっぺん同士同じくらいの大きさか。この桜の方が葉っぱが一つ出ているか。
今は五分か六分咲きだ。枝が箒のように広がっている。辞典で調べてみると、これが山桜だろう。大島桜は散って五分咲き、山桜は葉が出て五分咲き、何という眺めだ。大島桜と山桜、毎年見られるのだ。
 
 
歩行距離

4月10日(月)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
        朝はまずまずだったが、昼は時間がかかってしまった。
  11日(火)朝昼 きつい雨。
  12日(水)朝0・5キロ昼0・4キロ計0・9キロ
        朝は500メートルだったから昼もと思ったが、400メートルでリタイア―だ。本人ではこの歩きならと、でもダメだった。
  13日(木)朝0・5キロ昼 階段 計0・5キロ
        昼は風が強いので階段を歩いた。3階まで6往復した。
  14日(金)朝0・5キロ昼0・5キロ計1・0キロ
        朝は段ボールを2回運んだので道路に出たら富士山の見える200メートルまでだ。昼は辛いので400メートルで休憩した。
  15日(土)朝昼 ともに風強し。
  16日(日)朝0・6キロ昼0・5キロ計1・1キロ
       時間がかかったが、マイマイペースで行った。昼も同じだ。

2017-04-09

辺見庸「父の記憶」NHKEテレ


 右手を腹の横に折りたたんで、右足を重く引きずりながら、辺見の故郷石巻の海岸を歩いている。ふらついて倒れそうだが、彼は踏ん張る。海の向こうに何が見えるのか。あの津波の後か。いつかも同じ場所を歩いた。震災はどこへ消えたのか。あるいは消えないのか。
 父の記憶といっても何も新しいことはない。生前、地方紙の記者として中国へ渡った。新聞記事がある。仲間が手ですくって粥を食べろと、中国人母子を笑った。父はもう彼女はしゃべらないよと言って、引き揚げて行った。
辺見庸はふがいないと思う。父がもういいといった後何かが足りない。
 中心が同じで半径が違ういくつかの円が描ける。同心円である。辺見庸が相手にしている50人や100人の聞き手も、辺見庸自身も、そして読者も、大きな円の端っこにいる。円から出ることはない。恐らく円の外にいると思う人は少ない。
その中心付近に中国人母子がいる。彼女を笑った日本人もいる。彼ら日本人は中心からほど近いところだ。辺見庸の場合、父がいた。しかし父は中国を歩きながら、中国人母子について何もいわない。
 90いくつまで生きた父親に辺見庸は尋ねた。今まで何の思い出が一番記憶に残っているのか。父の答えは、学生時代のボート選手。辺見は途方に暮れる。中国の母子はどこにいったんだろう。辺見は父親にそれ以上は聞かなかった。


歩行距離
4月3日(月)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
       平均100メートル10分だった。午後は大いに時間がかかった。
  4日(火)朝0・4キロ昼0・6キロ計1・0キロ
       昼は500メートルからの100メートルがきつかった。
  5日(水)朝0・5キロ昼0・4キロ計0・9キロ
       全体的によくない。
  6日(木)朝昼 風が強くて休む。
  7日(金)朝昼 まったく昨日と同じ。
  8日(土)朝昼 金曜と同様。
  9日(日)朝0・4キロ昼0・2キロ計0・6キロ
       雨だから軒の下を歩いた。朝は400メートルを普通のペース。昼もまた     
       と思ったが、風が強く200メートルでやめた。

2017-04-02


 引っ越して11か月となった。いよいよサクラの季節が満開だ。ソメイヨシノのピンクの花が空一面に広がる。サクラの木の下で花々を見てみたい。そんな思いが頭をよぎる。残念なことにソメイヨシノは振られてしまった。裏庭のサクラの木が山桜だった。
 山桜は枝の葉とともに1輪ずつ白い花が開く。次の日にまた1輪。10日で5分咲きか。それはそれで美しい。満開だと空が1面に白く染まるだろう。葉が花を支えているようだ。ソメイヨシノとは違った趣がある。この山桜は2本だけのようだ。
 裏庭には4本ほどのサクラがあると思った。しかし2本は枝から見てどうもサクラではないらしい。幹がほかの木に隠れて見えなかった。4本なら壮大な眺めになるところだったのに。
 去年の5月、6月のブログで、裏庭が一面の雑草に覆われ、植木屋の職人が早く来ないかなと思っていたが、今年の4月に雑草はほんの一握り、花が咲いているのもある。去年の1メートルを超す雑草は本当かしら。
 花が咲いているのは紫がかったピンクだ。ベランダから見ると50センチぐらいの幅の花々が横は5メートルも咲いていた。花が咲き誇るようだ。ピンクの花は高さ20センチほどだが、もう一種類10センチほど白い花が咲いている。ピンクの花に隠れているようだが、ちゃんと咲いているという姿を示している。
庭中央にハナミズキが一本植わっているが、その回りにも紫がかったピンクの花びらがある。裏庭を一周してみよう。東側に雑草が育っている。南側には山桜が咲いて、その右側に花と間違える赤い葉が緑の葉の間にある。それから大きな椿。花がどぼっと落ちている。西側に先程の赤い葉だ。今が見ごろかもしれない。

 
歩行距離
3月27日(月)朝昼 雨
  28日(火)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝も昼も同じように調子が出ない。どちらも最後の100メートルがきつい。足が上がらなくてふらふらと感じてしまう。
  29日(水)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝も昼も少しはいい。
  30日(木)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       朝の方が少しはいい。土曜からは500メートルにしたい。
  31日(金)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
       明日からは0・5キロずつにしよう。
4月1日(土)朝は雨。昼ごろ止んだので歩きに行ったら、また降ってきた。300メートル。
  2日(日)朝0・6キロ昼0・4キロ計1・0キロ
       この日は思い切って300メートルまで行った。昼もと思ったが、200メートルで断念した。

2017-03-26

『赤い花・信号』 ガルシン 小沼文彦訳 旺文社文庫

 
解説と年表によれば、ガルシンは1872年17歳で精神病の最初の発作が現れた。1874年展覧会で見たロシアの惨状に魂をゆすぶられたガルシンは勉強を続ける気にならず、1877年義勇兵としてキシニョフへ出発した。
 トルコ軍との戦闘に二度参加した。この戦闘の後、死体埋葬のためガルシンを含めた兵隊が派遣され、死体にまじって、飲み食いもなく死を待っていた兵士が発見された。これがいわば彼の処女作『四日間』のテーマとなっている。
 脚部に負傷したガルシンはハリコフに戻ると、『四日間』の推敲にかかり雑誌に掲載された。ここで大いに推賞されたが、憂愁感は彼を離れず発作を起こしたりしている。やっと軍務を離れ、2,3の作品を発表した。
 モスクワに出てからも強迫観念に縛られ、狂暴性のある患者として精神病院に送られたこともあった。1882年やっと鉄道の仕事に着くことができ、翌年女医と結婚し妻の助けを借りて3編の作品を完成している。
 しかし妻の看護にもかかわらず、神経を悩ますことが多くなった。病勢は悪化する一方であった。1887年悲劇の幕切れである。彼は部屋を抜け出し階段の上へ出ると、発作的に空中に身をおどらしてしまった。骨を折った彼はその後意識を失っていった。
 ガルシンの作品は多くはない。彼の代表作は『赤い花』だ。ハリコフの精神病院に入院中、作者自身の体験をもとにして、当時のロシア青年の悪とたたかい身を滅ぼす一青年の物語である。
 しかしここでは『信号』を紹介する。
 病弱な30ぐらいの主人公はある将校の従卒を勤めてトルコ軍との戦いに加わった。そして遠征から無事に妻のところへ戻ったが、父と息子はすでに死んでいた。体が不自由なうえに家族は妻だけとなって彼は途方に暮れていた。
 そんなときある駅で同じ連隊の将校に出会った。将校に彼の身の上を話すと、線路番の小屋が空いているといった。彼は喜んで受け入れた。小屋の正面の駅をきれいにし、妻は小屋の周りの畑を耕した。
 彼は両隣の線路番と話すようになった。一人はよぼよぼの老人でめったに外へ出ず、かみさんが見回りをしていた。もう一人は若い男だが、いつも汽車のことでぶつぶついっていた。女房も同じようなふくれっ面だった。
 隣の男は全然給料が上がらない。主人公はなだめにかかる。そんなとき主人公は金梃子でレールを外している男が逃げたのを見た。線路の向こうには汽車がやって来る。工具を取りに小屋まで行く暇がない。工具から赤い切れを取り出して汽車の前に立った。
 主人公と汽車が近づいてくる。彼は赤い旗を落としてしまった。そのとき赤い旗を拾い上げて汽車を止めた男がいた。それは逃げた隣の男だった。


歩行距離
3月20日(月)朝 400メートル。昼 階段上り下り三階まで5セット。歩き200メートル。距離はこなしたが、歩きはメタメタだ。
  21日(火)朝 200メートル。昼は階段をと思ったが、雨で中止した。
  22日(水)朝昼 病院行きのため休み。
  23日(木)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
        朝昼400メートルのうち昼の400メートルはきつい。200メートルで休憩だ。これをなんとかせねばいかん。
  24日(金)朝0・4キロ昼0・4キロ計0・8キロ
        400メートル40分だ。昼は45分。もっとタイムを上げなくては。
  25日(土)朝 0・4キロ昼 0・4キロ計 0・8キロ
        どうも速く歩けないなあ。
  26日(日)朝昼 雨

2017-03-19

『至福千年』 石川淳 岩波書店


 井伊直弼が死んで、8月18日の政変(七卿落ち)、禁門の変(長州逆賊)が終わり、「ええじゃないか」が大流行したが、冬峨は神戸から船に乗って留学に出、松太夫は関西へ商売に出かけた。一方一角は彦一郎を相手に松太夫が留守にした相生丸を乗っ取ろうとする。
 小説で生き残ったのはこの4人である。冬峨は早くから侍を脱して俳諧に精を出す。松太夫は冬峨を先生として俳諧を志し、一角は松太夫憎しと心臓を狙いたい。彦一郎は全くの政治嫌いで自分の赴くままに剣を握る。
 加茂内記はこの物語の主人公である。神官であるがマリア像を信じていた。江戸の町を乞食や非人で埋め尽くし彼らに十字架を載せようとしていた。ただ内記にはマリア像を信じるほかに、幕府の要職と結託して利を得る野望もあった。
 一角は内記の懐刀として怪物を退治する。どこへでも出入りする早見早聞きの男である。もちろんマリア像を信じた。しかし小説の最後の方で内記の術に疑いを抱き、これを殺すと江戸の町を穢多非人で満たし、そのまま横浜の相生丸を目指した。
 庭木で日本国中に名をはせた松太夫もまた穢多非人に興味を抱き、彼らにキリスト教を授けようとする。松太夫は内記に横着ぶりを笑われ、その弟子十兵衛に内記を取り締まるよう、家の中を厳重にした。
 冬峨は三味線延登喜と一緒に暮らしていたが、所詮こちらも風来坊で最後は延登喜に逃げられてしまう。彦一郎とは縁があってともに暮らすが、冬峨の親切も彦一郎には剣の道同様博打好きで、合わなかった。
 この本には大勢の人間が顔を出しているが、残念ながら多くは死んでしまう。石川淳の小説にこんなことがあるだろうか。「ええじゃないか」に食われてしまったのだろう。


歩行距離
3月13日(月)朝 ゴミを出しに行った。200メートル。昼は曇っていけない。
        団地付近を歩こうとしたが、それもやめた。
  14日(火)朝 小雨だったが、ゴミを出しに行った。昼も雨。
  15日(水)朝 ゴミを出しに行った。何かおかしい。右足がやっと上がり下がりができる程度だ。特に下がりが曖昧で何分かかったか分からなかった。
         昼も止めだ。
  16日(木)朝 ゴミ置き場までが精一杯だった。200メートル。昼は200メートルと同じだ。少しずつ距離が延びればいいが。
  17日(金)朝 300メートル行った。昼はやはり300メートルだ。少しずつ伸ばしていこう。
  18日(土)朝 300メートル。400メートルを目指してもなかなか入れない。昼は階段を上り下りした。3階まで3セット。次の日がどうなっているのか楽しみだ。
  20日(日)朝 300メートル。昼 階段を上り下り。3階まで5セット。まあ、それほどよくない。

2017-03-12

『太陽を曳く馬』髙村薫 新潮社


 高村薫は刑事合田雄一郎の作品を長い間発表し続けていた。しかし彼もこの作品でお終いである。ちょうど2000年9月11日のニューヨークテロ事件のあった年であった。若い僧侶がトラックに轢かれてしまう。捜査の行方も叶わぬまま、合田はこの事件を終わりにして刑事をやめた。
 若い僧侶末永の死について合田は、不慮の事故か自殺かは扱いかねていた。三人の先輩僧侶、若い僧侶の師ともいうべき高名な明円、今は東京郊外で僧侶をしている年配の男、かれらに話を聞いてある結論を出した。
 「長谷川明円は末永和哉に通用門の鍵を渡した。いつどんな時でも、人間は閉じ込められてはならないという理由だ。さらに長谷川と末永は宗教対話を重ねた。対象に向かう限りで現れる私に自由な意思があるなら、それはどのような形で可能であるかについてである」
 このようなものを送られた検事は怒りに達し、末永の死について長谷川は黒と決めつけた。合田は立件できるはずのない事案を立件するという検事の暴言を放置し、警察を辞めたのである。
 警察をやめるという合田の振る舞いは最後を読めば簡単であった。しかしここまで全2巻があるのだが、果たしてそこまで必要だろうか。上巻の殺人事件は関係者が多すぎる。多くの人物が2,3行でいいのに、1ページも2ページも使っている。
 いや、2,3行でいいなら全部カットしてもいい。下巻の最終章は、東京郊外で僧侶をしている年配の男福澤が、殺人犯である子供相手に手紙を出している場面だが、これもカットだ。上巻の3分の2と下巻の最終章はなくなった。
 こんなことをしていたら高村薫は怒るかもしれない。下巻でも難解な言葉がたくさんある。特にオウム真理教に関して三人の先輩僧侶はアラを探し、合田もうなずく。私にはこの章は斜めにページを追っていたにすぎない。
 いずれにしても私がカットしないで残しておいた上巻の3分の1と、最終章を除いた下巻は、並み以上である。


歩行距離
3月6日(月)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
       朝はゆっくりで仕方ない。午後は曇って今にも降りそうだ。休みにした。曇っていて富士山は見えず。
  7日(火)朝0・9キロ昼0・7キロ計1・6キロ
       500メートル43分。遅い。ゆっくりだから後の400メートルもダメだ。午後はこれもゆっくり、700メートルでやめた。曇ってて富士山は見えず。
  8日(水)朝0・7キロ昼0・9キロ計1・6キロ
       500メートルは大いにタイムがかかった。昼も同じ。足を大きく出すと時間がかかる。富士山はよく見える。左側は真っ白だが、右側は五合から下は雪がない。
  9日(木)朝0・7キロ昼0・9キロ計1・6キロ
       ゆっくり歩く。富士山がきれいだ。午後はこちらもゆっくり。
 10日(金)朝――――昼0・7キロ計0・7キロ
       夕べ、こたつの横に足がぶつかって、あれよあれよという間にこたつの長い方の端と閉めてあった襖の間に落っこちてしまった。もんどりうったわけだ。背と畳がくっついている。どうしようもなくあれこれ考えた。とりあえず閉めてあった襖を開けて、右足をついて脱出に成功した。腰の後ろが痛い。立ち上がると何でもないが、椅子に座るとダメだ。
       今日は大分よくなった。朝の歩きはお休み。
 11日(土)朝0・7キロ昼0・2キロ計0・9キロ
       直立して座ると少し痛みがある。500メートルを過ぎてポストへ行ったら足が上がらないようになったので700メートルでやめた。富士山は見えず。午後は張り切って家を出たが、足が上がらないので200メートルでやめた。
 12日(日)朝0・7キロ昼0・6キロ計1・3キロ
       朝昼ともゆっくりだ。昼は800メートル行こうかと思ったが、自然と600メートルになった。自然とというのが何か不思議だ。富士山は見えず。娘が来て尾てい骨の痛みを見てもらおうと尻を出したが、何ともないといった。これで痛みも気にしないですむ。

2017-03-05

『新リア王』髙村薫  新潮社


 彰之とその父福澤榮の二人を主人公とする物語だ。福澤榮は青森県を地盤とする代議士であり、秘書や息子を手玉に取るように育ててきた。しかし私に彼の生きざまを云々する資格はない。代議士の生活はそれ相応におもしろいのだが、今は髙村薫の世界に取っておく。
 その代り彰之に興味がある。『晴子情歌』ではその後の生活を垣間見ることはできなかったが、ここでは永平寺に修行に出ることになる。雲水の集団が一週間座禅をくむ修業はまれにみる葛藤であり、座が明けたらみんなの顔は引き締まっていた。
 『晴子情歌』でいろんなところに顔を出す初江が永平寺にやって来る。突然の来訪に彰之は驚き、彼女を連れて青森へ向かう。彼女は今の夫との離婚届を出せていない。彰之は彼女を寺に住まわせる。
 彼らには子供がいた。とうとう彼女の夫は離婚届にサインし、これからというとき彼女は寺を出てアパートを借りた。彰之は初江を東京の少年院へ尋ねに行く。子供はその後も窃盗を繰り返した。一方初江は青森のアパートを出て行った。
 彰之が1週間の修行に入る生活は非常に興味があった。


歩行距離
2月27日(月)朝0・9キロ昼‐――計0・9キロ
        風が冷たい朝だった。何とか歩いた。昼は曇ってきたので休む。富士山は見えず。
  28日(火)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
        500メートル37分。だんだん良くなっている。午後も500メートル強47分。これからだ。富士山は全体がかすんでいた。
3月1日(水)朝0・4キロ昼0・9キロ計1・3キロ
       洗濯物を干しているうちに歩き出すのが8時を過ぎてしまい、0・4キロとなった。午後は500メートル強48分。雲がかかって富士山は見えず。
  2日(木)朝――――昼0・9キロ計0・9キロ
       朝は今にも降りそうなので止めたら、降りそうでもないので11時に朝のコースを歩いた。ゆっくりだが、500メートルを過ぎてからちょっと急ぎに歩いたら400メートル23分だった。まあまあだ。富士山は見えず。
  3日(金)朝0・9キロ昼0・7キロ計1・6キロ
       朝も昼も調子が悪かった。富士山がきれいだ。久しぶりなのか、全体がはっきりとしている。富士の姿はこんなにも大きいのだと感じてしまう。
  4日(土)朝0・9キロ昼――――計0・9キロ
     500メートル44分。相変わらずダメだな。昼は風が強くなった。富士山は見えず。
  5日(日)朝0・9キロ昼0・7キロ計1・6キロ
      500メートル44分。もっと速くならないかな。午後は左足ではなくて、右足が前に出ない。0・7キロでやめた。富士山は見えたが、全体に雲がかかっている。

2017-02-26

『晴子情歌』髙村薫 新潮文庫


 髙村薫の本はいくつか読んできた。『マークスの山』、『レディ・ジョーカー』、『黄金を抱いて翔べ』など、世間に話題となったものである。前二つは合田雄一郎の刑事ものであり、それなりに気に入って病気の前に読んだもので、今は忘れてしまった。病気とは恐ろしいものである。 
 ミステリー作品というものは、元来あまり好きではなかった。結末があり、それに向かって進むというのが作品であるかのようである。あるかのようとは変な言い方だが、ミステリーを読んでいないので仕方ない。
 図書館で髙村薫の作品に出会った。上下、あるいは上中下に分かれていた。一目見てこれは読んでみようと思った。内容がある。説明ではない何か、あるいは主人公の胸をえぐる何か、それらが内容であって、読みでがあると思えた。
 本書と『新リア王』、『太陽を曳く馬』は私には初めての本である。三部作となっている。まずは『晴子情歌』から始めよう。これは文庫になったばかりだ。作者は晴子の長い手紙から始める。その後に息子彰之の漁船に乗った手記が入る。
 三百日にわたる晴子の何通かの手紙は、子供のころから50代まで晴子の生い立ちが描かれる。晴子の親兄弟、福澤家の人々など入り組んでいるときは系図を引いて確かめよう。なんと晴子の身内は複雑なことか。
 彰之の手記は晴子の一通ずつの手紙の後に表れる。漁船に乗って遠洋に行った彰之は一つ一つを丁寧に読んだ後、三百日に実家に帰って晴子に手紙の感想をいおうとするがそれも戸惑う。
 所詮親子とはいえ、晴子には晴子の人生があり、彰之には彰之の人生がある。それぞれ一人ぼっちだ。彰之は母から頼まれた砂を求めて浜に行く。砂をビニールに入れながら親子とは何かを考えていた。結末の「お母さん」。彰之が涙を流す場面が続くだろう。


歩行距離
2月20日(月)朝0・8キロ昼‐―――計0・8キロ
        足の踏み場がないようだが、500メートル38分とまずまずだ。富士山は雲に隠れて見えない。午後は強風状態で休み。
  21日(火)朝0・7キロ昼‐―――計0・7キロ
       500メートルまではまずまずだったが、あとは風が強くて700メートルで切り上げた。富士山はきれいだ。
  22日(水)朝昼‐―――
        病院へ行ったので休み。富士山も見えず。
  23日(木)朝昼‐―――
       朝から雨と強風。
  24日(金)朝―――昼0・4キロ計0・4キロ
       朝は風強し。昼は歩こうと思っても足が出ない。400メートルでやめた。
  25日(土)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
       足が上がらなかったが、後半足がスムースにいった。午後は下りの階段がきついと思ったが、一段一段しか下れなかった。タイムはかかったが、予定通りこなした。
  26日(日)朝0・8キロ昼0・9キロ計1・7キロ
       足が上がらずだが、それなりのゆっくりペースだ。午後はこの間より少しいいかな。富士山が見えたが、少し曇っているようだ。

2017-02-19


「ただ乗り」はどっちだ(半田滋)

 トランプ次期米大統領が主張する「安保ただ乗り論」で思い出した。
 防衛省は日米地位協定5条2項に基づき、在日米軍が演習場へ向かうなどの公務で高速道路を使う際の通行料を負担している。
 在日米軍はこの条項を拡大解釈して、米兵とその家族にレンタカーを貸し出す際にも通行料が無料になる「軍用車両有料道路通行証明書」を渡している。レンタカーは軍用車両ではないし、レンタカーを使ったレジャーは公務ではない。
 2008年5月、横田基地を管理する第374空輸航空団のホームページに「レンタカーは高速料無料」の記述があり、判明した。
 米軍発行の通行証明書は、料金所から防衛省に回され、通行料を肩代わりする。15年度、防衛省が負担した通行料は延べ72万台分、7億2900万円に上った。レジャーなど公務外の使用は肩代わりしないが、通行証明書をみただけではレジャーか公務かわからない。在日米軍は「米兵がレンタカーを使用するのは公務の福利厚生に当たる」と主張し、無料配布をやめようとしない。結局、日本政府による全額負担が続いている。
 日本が負担する在日米軍経費は米兵の光熱水料まで含まれ、本年度5566億円。基地を抱える各国中、ダントツの負担額、負担割合である。加えて高速道路の「ただ乗り」だ。米国の天国ではないか。(半田滋)
 去年の12月に紙面に載ったものだ。

歩行距離
2月13日(月)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
        足を前に出す練習だからタイムもかかっている。午後は500メートル強50分。いつごろ40分を切れるか。本当は33分を目標なのだが。富士山は本当に美しい。
  14日(火)朝0・6キロ昼0・9キロ計1・5キロ
        500メートル39分。今朝はこれで降りた。午後は500メートル強48分。まあ今はこんなものだろう。富士山はきれいなものだ。
  15日(水)朝0・8キロ昼0・9キロ計1・7キロ
        500メートル38分。自分の感じで足を上げすぎた。午後は400メートル手前の階段がきつくなった。晴れの日の富士山はいい。
  16日(木)朝0・6キロ昼0・9キロ計1・5キロ
       500メートル38分。足が上がらず。富士山がきれい。午後は500メートル強44分。だんだん良くなっている。
  17日(金)朝昼ナシ。風がすごい。
  18日(土)朝0・6キロ昼0・9キロ計1・5キロ
       朝は足が上がらず、600メートルでおしまい。午後は500メートル強48分。
       後半は400メートル弱29分。
  19日(日)朝―――昼0・8キロ計0・8キロ
       朝は風が激しく中止。午後は800メートル。500メートル38分だった。富士山は7,8合目までは雲でおおわれていたが、頂上はきれいだった。

2017-02-12

『愚者の夜』青野聰 文春文庫


  愚者の夜とはよくいったものだ。結婚して何年か経っているのに妻との間で、精液が出ない。結婚以来出たのも2,3回だけだ。国際結婚をしている妻は夫をどうとらえているのか、家を空けて他の男と同棲をする。男と女、互いに愚者だ。芥川賞受賞作。
 国際的な漂泊を生きる糧とする犀太は、同じような考えを持つオランダ人のジニーと結婚する。彼らの生活は冒頭に書いた通りだ。パリを根城にしてアルバイトで金を貯めれば、互いに別々に中東、アジア、アメリカへと旅を繰り返す。
 犀太は旅をすれば女と交わらない。イスタンブールでは妻あての装身具を買い、カルカッタでは周りのみんなと跪き、またサン・フランシスコでは丘の上に立って海を見下ろした。このようにしてパリに戻ると妻は、相変わらず男とキスをしている最中だ。
 妻は旅をするときは旅の途中で知り合った男と一緒だ。パリに戻れば違う男と一夜を過ごす。それでいて犀太が一番好きだという。彼女は一時も一人じゃいられない。どんな男でも好きになれば裸で付き合う。
 このような時、犀太はもう一人でもいいじゃないかと思う。彼女と離婚しようとする。ところが彼女はそれを拒否する。犀太が一番好きだという感情が彼女を縛る。仕方ないから彼女を日本に連れ戻す。
 世界を放浪するものが、故国へ帰る。当然と言えば当然だが、当然でないと言えば当然ではない。放浪するものは、その旅先で職を見つけるか、死ぬか、どちらでもいいが、故国へ帰ることは放浪を意味しないのではないか。
 しかし放浪するものいつかは故国へ帰る。放浪を諦めてしまう。故国へ帰るのは自然かもしれない。ところが彼は彼女と一緒に日本を放浪することになる。彼と彼女が決断を下す場面。二人は泣きながら電柱のそばで抱き合っていた。二人の結論は別にして、一番いいシーンだった。


歩行距離
2月6日(月)朝0・8キロ昼0・9キロ計1・7キロ
       もっとタイムが出ると思っていたが、500メートル38秒だった。富士山は雲をなびかせてきれいだった。午後はいい時と悪い時がある。今日は悪い。500メートル強42分。500メートル弱27分。
  7日(火)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
       500メートルまではよかったが、後半がダメだ。富士山はくっきり。午後は500メートル強41分、後半500メートル弱28分。もうちょっと走らないといけない。
  8日(水)朝0・7キロ昼――――計0・7キロ
      500メートル35分だ。そのあとは事情があって700メートルでやめた。富士山がきれいだ。午後は風が強くてやめた。
  9日(木)朝0・2キロ昼なし計0・2キロ
       曇りだが歩いてみようと外に出た。何か雨かなと思っていると、女の人が傘をさしていた。それで中止。その後雨かみぞれだった。
 10日(金)朝0・9キロ昼なし計0・9キロ
       500メートル36分。そんなに速くもない。午後は雨から雪だ。富士山は全体に雲がかすかにかかっている。
 11日(土)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
       しかし遅いな。500メートル38秒。歩きはいいんだが、タイムが出ない。富士山は頂上の左側に雲がかかっていた。何気なく見た人には左側が少し高いのかと思うかもしれない。午後は500メートル強46分と馬鹿にかかった。400メートル弱は28分。苦しいところだ。
 12日(日)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
      交差点まで行こうとしたが、つらいので坂の頂上で引き返した。富士山は今までで一番美しい。午後はもっと悪い。歩くとき右足を前へ送るからタイムが出ない。500メートル強48分かかる。でもこれで練習しなければいけない。

2017-02-05

映画『タクシードライバー』


 アメリカのベトナム戦争で、海兵隊に所属していたロバート・デ・ニーロが帰国後職業安定所へ行った。係員もベトナム戦争で海兵 隊にいたことで、タクシードライバーに斡旋してくれた。
 タクシーを運転しながら、かわいい子を探す。美人と思っていた女に振られてしまう。なおも女を探し、幸い女を見つけ出し、デートに誘った。映画を見に行ったらポルノ映画だった。もちろんパーだ。彼は映画はポルノだと決めてかかっていた。
 その女の勤め先は大統領候補の事務所だった。候補が演説するときは、彼女は候補の周りで演説に合いの手を入れる。しかし候補の演説は警備員が固く、人の輪の中に入ることができない。それで彼は大統領候補を暗殺しようと試みる。大統領候補が憎いからではない。とっさの判断だ。
 闇屋からピストルを何丁か買う。この辺もアメリカ映画だ。彼は練習に練習を重ね、とうとう一人前のガンマンになった。そしていざ出陣だと思って候補の立会演説会に行ったら、警備が厳重すぎて諦めざるをえなかった。
 しばらくして少女に出会う。彼女は時間いくらといって服を脱ぎにかかる。彼は彼女にこんなことはつまらないから止めるよう説得した。彼は彼女を娼婦にした男を殺してしまう。男の連れも殺した。残忍な場面。これもアメリカ映画だ。
 少女を救いだし、彼は何日かをタクシーの運転手として都会をさまよう。偶然大統領候補の事務員である昔の女がタクシーに乗った。彼は料金を受け取らなかった。車を走らせたバックミラーには、彼の顔が映っていた。
 彼の顔は何を語っているのか。
 ベトナム帰りのロバート・デ・ニーロは、世間のベトナムを忘れようとする態度にぐらつき、それなら俺が忘れさせないと怒りを爆発させた。徐々に、そして一気に。ミラーに映った彼の顔はそれを映している。これが私の解釈である。

 
歩行距離
1月30日(月)朝0・9キロ昼‐―――計0・9キロ
       風がかなりあった。おまけに足が上がらなくて500メートル40分かかった。富士山も見えず。昼は風がいっそう強くなった。歩くのをやめたら1時ころに風もなくなった。
  31日(火)朝0・3キロ昼0・9キロ計1・2キロ
       風が強く300メートルでやめた。富士山が出ていた。ちょっと雲がかかっているようだった。午後は12時前には結構風が吹いていたが、12時半ころには全く止んでしまった。900メートルは私の足ではまだまだ辛い。
2月1日(水)朝0・6キロ昼0・9キロ計1・5キロ
      全然足が上がらない。600メートルで切り上げた。富士山は雲の中。午後は昨日より距離を増やした。500メートル強43分。続いて500メートル弱29分。昨日よりいい。
  2日(木)朝0・4キロ昼0・9キロ計1・3キロ
       風が冷たい。襟元から冷えた風が入ってきて胴体をなめまわしている感じである。400メートルでやめた。富士山はとてもきれいだ。午後は風も止んだ。はじめの500メートル強は30秒早い。後半の500メートル弱は25分。これはいい。
  3日(金)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
       いつもとは違う道を行ってタイムを測らなかったが、調子はいいように思う。富士山がきれい。午後も調子はいいみたいだ。500メートル強39分。後半の500メートル弱23分30秒。
  4日(土)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
       土曜日曜は交差点の方まで行く。今日は400メートルで引返す。残りの100メートルは1棟の前で行う。富士山が美しい。午後は500メートル強39分30秒。後半は500メートル弱24分30秒。昨日より少し遅い。
  5日(日)朝0・9キロ昼なし計0・9キロ
       交差点(450メートル)で引き返した。500メートル34分30秒。帰りはちょっと辛い。400メートル29分。富士山は裾が見えた。午後は曇ってきた。降りそうでまだ降っていない。


2017-01-29

『荒魂』(あらたま)石川淳 新潮社


 狂気、乱舞、裸などは石川淳のお手の物だが、『荒魂』はこれらのものが入り混じって少々読者が混乱するくらいだ。導入部は、村で余計者の赤ん坊は林檎の木の下に埋められたが、あまりにもひどい泣き声に、親父が助けてしまった。
 それ以来、佐太という赤ん坊は村のガキ大将になり、ある日村から飛び出して都会に出た。都会は厳しく、男二人に渡りをつけてやっと生きてきた。こんな出だしだから佐太の波乱万丈が始まると思っていると、佐太の生涯いや生活はそこまでであった。
 あとは企業の買収で男女入れ替わり立ち代わり、その場を泳いでいるようだ。ただし狂気、乱舞、裸は面白い趣向だが、それ以外私には興味が薄れている。最後のパーティとそれ以後は勝負を急いだ感じがする。
 男女入れ替わりと書いたが、主人公は女であるようだ。男か女かは言い難い。それでも女なら照子だろう。パーティでは、白いドレスの裾が長くふさふさとしている。それをはぎ取ると大胆な裸であった。照子は裸の美しい女であった。ある男の妾である。女将でもあった。最後まで生きながらえている。
 忘れてしまったが、石川淳は企業を表に出すのは珍しいのではないだろうか。ちょっと観点が異なるが、戦後の文学者が競って銀座のバーに出入りして、それを文字に表すということがはやった。何かそういう印象も受ける。
 それはそれとして石川淳は旧仮名遣い、旧漢字と助詞の使い方に独特のものを持っている。ぱっと開けたら274ページに、「トラックのはうが尻込みして」、「こちら側にわたりをへると」、「きおひこんだトラックは」など旧仮名遣い。旧漢字はこのブログでは書けない。いっぱいある。言葉遣いはその作家の好みだ。
 石川淳が晩年、奥さんと一緒に銀座を手を取り合って歩いていた。そんな報道が新聞に載った。表も裏もないこういう人だと思った。
 

歩行距離
1月23日(月)朝0・8キロ昼0・8キロ計1・6キロ
       ダメだと思いつつも時計を見たら500メートル32分だった。富士山は中腹に雲がかかっていたが、山頂からすそ野まできれいだった。午後は500メートル34分、800メートル59分だ。後半頑張ろうと思っていてもダメだなあ。
  24日(火)朝0・5キロ昼  -  計0・5キロ
       まったく風が強かった。富士山は見事に全体を現していた。
  25日(水)朝昼 病院のためなし。
       富士山はきれいな姿だ。
  26日(木)朝0・8キロ昼0・8キロ計1・6キロ
       朝から足が重かった。朝は2分遅れだが、昼は5分遅れだった。富士山がきれいだが、少し曇っているように見えた。
  27日(金)朝昼 風が強くやめた。
  28日(土)朝0・8キロ昼0・8キロ計1・6キロ
       500メートルを過ぎたら足が上がって調子よくなった。富士山が見えたが、少し雲がかかっている感じがした。昼は全くダメだ。10分近く余計にかかった。
  29日(日)朝0・9キロ昼0・9キロ計1・8キロ
       900メートルを歩いた。行きはちょうど交差点まで。帰りは坂を車が上ってくるところで一休みして帰る。1時間11分とまずまずだ。午後は団地を1周するコースで、最後だけを半分にした。階段、坂の上り下りと容易ではない。タイムは10分余計にかかった。

2017-01-22

『砂の女』安部公房 新潮文庫

 安部公房の作品は『砂の女』が初めてである。読もうと思っても読み切れない。カジが合わないとでもいうのか。石川淳の背中に安部公房を載せてという洒落も洒落で終わった。『砂の女』は映画にもなってずいぶん話題を呼んだものだ。
 高校の教師が第2の仕事だと思わせる昆虫採集に、砂丘を選んだ。砂漠の昆虫を取ることが彼の大きな働き場所である。ラテン語の学名と自分の名前をセットにして図鑑に載るのが彼の夢である。
 コバネササキリモドキ、ヒゲジロハサミムシ、アカスジカメムシ、シリジロゾウムシ、舌をかみそうな名前がまだある。砂も得意だ。8分の1ミリの砂粒をどうするか、彼のお手の物だ。しかし砂搔きをしないことが彼の行動を阻害する。
 彼は砂の中にうずくまるように建っている小屋に閉じ込められる。そこに一人の女がいた。からだの下は裸である。砂がからだにこびりつくから上着の下は裸であった。彼を見ると上着を重ねた。
 女はいつも砂搔きをしている。彼女の日課だ。砂の穴に入れられどうしようもなくなった彼は、最初馬鹿にしていた砂搔きをいつの間にか彼の仕事にするようになった。こうして彼は脱出の時間を待つ。
主人公が砂漠の脱出を試みる3分の2までは、まるで芥川賞を取った作品だと思わせた。昆虫の名前や砂の粒を何度も唱えているからだが、後半の3分の1は脱出に失敗した後とそれに続く監禁状態は、彼の夢の幻想となる。
『砂の女』は安部公房の代表作の一つだろう。

歩行距離
1月16日(月)朝0・2キロ昼0・8キロ計1・0キロ
       ゴミだしした。手がかじかんでしまった。今朝は終わりだ。午後は800メートル。あまりよくない。
  17日(火)朝0・8キロ昼0・8キロ計1・6キロ
       タイムを取らなかったが、いいように思う。富士山が絵のようだといってもいいほど本当にきれいだ。午後は後半息切れしたが、まずまずだった。
  18日(水)朝0・8キロ昼0・8キロ計1・6キロ
       交差点の方へ300メートル、戻って1棟前を200メートル歩いた。タイムは図らないが、昨日と同じ様だ。富士山は雲に隠れて、裾だけが見えた。午後も歩きはまずまず。
  19日(木)朝0・8キロ昼0・8キロ計1・6キロ
       500メートル32分と破格の歩き。800メートル50分。曇りで富士山は出ず。午後は調子悪く500メートル37分。800メートル56分。
  20日(金)朝昼 曇りで歩きはゼロ。
  21日(土)朝昼 台風並みの風。歩き0。
  22日(日)朝0・7キロ昼0・8キロ計1・5キロ
       前半飛ばしすぎた。500メートル32分。それからがきつくて700メートルでやめた。午後は風がきつかった。800メートル59分。これならもっと行けるはずだ。

2017-01-15

『蓼喰う虫』 谷崎潤一郎 新潮文庫 (たでくうむし)


 はじめに吉田健一の解説を読んだ。谷崎の前期と後期は作風ががらっと違うが、『蓼喰う虫』はちょうどその中間にあり、前後期とは異なる面白みがあるということだ。その面白みを主人公美佐子の表情・表現に求めている。
 実際本を読むと、その面白みは分からない。この小説の面白さは、例えば美佐子の父親が彼の妾を連れて、地唄を求め四国まで行くというようなことではなく、美佐子の夫・要の表情・表現にあると思う。
 夫と妻は性的に不満足になり、夫は妻に自由な関係を持つ恋人を持つというような、奇妙な三角関係を作ることになった。そのとき夫はどうするのか。
 小説の最後、要は美佐子の父親に促されて、実家に戻る。夜も更けて寝床に入ると、
(これからが本番だが)

「いよいよ降って来ましたな」
襖が明いて、五六冊の和本を抱えた人の、人形ならぬほのじろい顔が萌黄の闇の彼方に据わった。(終わり)

この人は父親の妾お久であろう。お九は父親の許しを得ていた。解説の吉田健一は何も言わない。しかしこの本の面白さはここにあると思う。

歩行距離
1月9日(月)朝0・4キロ昼  ―  計0・4キロ
       ゴミを2回出した。計400メートル。午後は雨が降ってきた。
  10日(火)朝0・8キロ昼0・7キロ計1・5キロ
       700メートルを歩いて帰ったら、健康診断のカードを出し忘れた。+100メートルだ。富士山がきれいだ。午後は1棟前を7回歩いた。
  11日(水)朝0・6キロ昼0・7キロ計1・3キロ
       今日はゆっくり歩いた。富士山が一番美しい。午後は500メートル37秒。まずまずか。
  12日(木)朝0・7キロ昼0・7キロ計1・4キロ
       きれいな富士山が見える。まずまずか。午後は700メートル51分。これからタイムを上げて行こう。
  13日(金)朝0・6キロ昼0・7キロ計1・3キロ
       1棟前を3往復。雲がかかって富士山は見えず。午後は2棟裏。タイムは昨日と同じ。そのうちに上がるだろう。
  14日(土)朝0・8キロ昼  -  計0・8キロ
       800メートルを歩いた。400メートルまでは上り坂だからかなり応えた。富士山は雲で見えない。午後は曇っていた。
  15日(日)朝0・8キロ昼  -  計0・8キロ
       昨日と天候は同じだ。朝は晴れていたが、午後は曇り。それから晴れ。富士山は曇って富士の裾が見えるだけだった。

2017-01-08

『ルーシィの哀しみ』フィリップ・ロス(斎藤忠行、平野信行訳)集英社文庫


 フィリップ・ロスは『さようなら コロンバス』で全米図書館賞を取り、日本でも一躍有名になった。私は『さようなら コロンバス』を再読しようと思って書棚を探したが、誰かに貸したのか見当たらず、2作目の『ルーシィの哀しみ』を読んだ。
 原題を「when she was good」という。「彼女が良かった時」とでも訳そうか。「良かった」には「善良な」とか「良い子」の意味がある。訳者はマザーグースの一句から「いい子のときは」として「滅法いいが、悪い子のときは、手もつけられぬ」と訳している。
 ルーシィは最初から最後まで夫のロイをののしる。彼女の「いい子のとき」は、読者の胸の内にあるのだろう。フィリップ・ロスはかけがいのないルーシィを動転させている。これでもか、これでもかというばかりだ。
 ルーシィは大学1年のとき子供を産んで、子供が5歳のとき、彼女は草むらで死んでいた。18歳から23歳まで、ロイを馬鹿呼ばわりした結果だ。夫の家族への悶え、5歳のとき子供を奪われたルーシィの哀しみだ。
 『ルーシィの哀しみ』の5分の1はルーシィの祖父の代から続く物語だ。特に祖父は記憶を失ってしまった彼の妹に心を悔やんでいた。これも哀しみの一つだろう。孫のルーシィが妹の唯一の楽しみだったのだが。


歩行距離
1月2日(月)朝0・7キロ昼0・7キロ計1・4キロ
       朝は曇っていた。坂道の帰りはきついなあ。午後は晴れて歩きもまずまずだ。
  3日(火)朝0・7キロ昼0・7キロ計1・4キロ
       晴れ渡り富士山も丸見えだった。0・7キロの帰りは相変わらず苦しい。午後はよろけそうになるほどこれも苦しい。
  4日(水)朝0・7キロ昼  ―  計0・7キロ
       7時にスタートした。道路は混んでいないから楽だ。約1時間、いつもの通りだ。横浜は快晴なのに富士山付近は曇っている。
 5日(木)朝  -  昼  -  
      玄関を出たら突風が吹いていて驚いた。
  6日(金)朝0・7キロ昼0・7キロ計1・4キロ
       500メートル37分だからすごいものだ。これを機に35分とあやかりたい。今までで富士山が一番きれいだった。午後も37分。
 7日(土)朝0・7キロ昼0・7キロ計1・4キロ
     前半はいいのだが、帰りは足が上がらない。それでも500メートル35分だった。富士山がきれいに栄えていた。午後は700メートル55分だ。
  8日(日)曇りそして雨。

2017-01-01

海辺のカフカ 村上春樹


 村上春樹は毎年ノーベル賞の候補といわれるものに上がっている。ノーベル賞である以上『風の歌を聴け』から現在まで、すべての作品が候補作であるといえよう。私は『海辺のカフカ』を選んだ。一人で森の中に行く、そんな記憶が頭の隅にある。
 15歳の少年が51歳の女性と交わる。現実か夢か、女性は無言のまま裸になっていく。少年にとっては僥倖だ。しかし彼は女性を単なる女性ではなく、一人の女性それも実の母として扱っていた。
 虚構と現実の入り混じった展開は、大江健三郎の『M/Tと森のふしぎな物語』を思い出させた。大江の話は歴史的な虚構と現実だが、大江に比べたら、『海辺のカフカ』は層が二重にも三重にも浅い。あくまで夢であるからだ。
 この作品は2種類の分野からできている。15歳の少年とナカタさんである。少年は四国に行き図書館で大島さんと佐伯さんに出会う。少年と佐伯さんが親子というわけだ。森の間をさまよった少年は最後に自宅へ帰る。
 ナカタさんは戦後のどさくさに脳をおかされ、それがもとに一人で暮らしていた。そして何かの縁でホシノ青年と四国に向かう。ナカタさんはある種のひらめきを持っている。ホシノ青年の助けでひらめきを開く。
 少年はカラスから示唆を与えられているが、カラスは15歳の少年の夢である。一方ナカタさんはあるネコとは会話ができる。ネコはナカタさんの夢である。ナカタさんはひらめきを自分の胸から出して死んでしまう。
 15歳の少年にはどんな未来が待っているのか。

歩行距離
12月26日(月)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        600メートルはこんなものだと思う。最後のばたつきもだんだん良くなるだろう。午後は足が言うことを効かない状態で歩いた。
   27日(火)―――
        1日雨
   28日(水)朝0・4キロ昼0・1キロ計0・5キロ
        足が上がらなくて引返した。午後は風が強い。
   29日(木)朝0・3キロ昼0・4キロ計0・7キロ
        足が上がらない。どうしてか。0・4キロがやっとだ。
   30日(金)朝0・6キロ昼
        0・7キロまで行こうと思ったが、坂道が続くのでやめた。いずれは0・7キロに挑戦する。最後がもっとしっかり歩けたらいい。午後は2棟の裏。足が上がらなくても600メートルは歩ける。途中で車を修理する人がいて、クラクションをならしたのでちょっと振り向いたら、続けてブッ、ブッと2回ならした。私ではなかった。歩く姿勢で振り返るのは簡単ではないよ。
   31日(土)朝0・6キロ昼  -  計0・6キロ
        手紙を出したので2棟の裏へ行って600メートル。今年は終わりだ。
2017年
1月1日(日)朝0・7キロ昼0・7キロ計1・4キロ
       0・7キロに挑戦した。バス停へ行く道は200メートルを過ぎたら上りになる。300メートルからほかの道と出会うので厳しいが、何とか350メートルまでこぎつけた。帰りは精いっぱいだ。途中おばあさんが「富士山がきれいですよ」と教えてくれた。2,30メートルは何もない崖地の向こうに富士山があった。雲一つない青空に富士山が光っていた。東京に比べると神奈川の方がよほど近い。両手の中に収まる、そんな大きさではない。この団地に来て初めてだった。
       午後は上り下りがないから楽に行けた。
  

2016-12-25

メルケル氏が切った啖呵

   私説 論説室から(熊谷逸男)

 よく先進7か国(G7)などの間で「価値観を共有する」という言葉が使われる。「共有しない」側には、北朝鮮はもちろん、最近では、中国やロシアも属するとされることが多いようだ。どういう価値観なのだろうか。
 「血統、肌の色、宗教、性別、性的指向、政治的立場に左右されず、民主主義、自由、人権と、人の尊厳への敬意という価値観の共有に基づき、トランプ次期米大統領との緊密な協力を申し出たい」
 ドイツのメルケル首相は、トランプ氏にかけたお祝いの電話でこう述べた。オバマ大統領とは一致できていた価値観を今後も共有できなければ、米国に対してといえどもお付き合いお断りということだ。ミュンヘン在住のジャーナリスト熊谷徹氏は、トランプ氏への「毒矢」と評した。安倍首相がいち早くトランプ氏に会いに行ったことと比較すると、メルケル氏の強い姿勢はいっそう際立つ。
 戦後ドイツの国是は、ナチスを繰り返さないことに尽きる。その根本を支える価値観が、メルケル氏が毒矢に塗り込んだ、差別への強い嫌悪と人道主義だ。
 トランプ氏はこの価値観に反する発言を繰り返していた。メルケル氏が切った啖呵にどう反応するのか。波紋は、価値観共有を目指してきた欧州、さらにはG7へと広がり、共有しない側も巻き込んで、世界秩序を揺るがしかねない。(熊谷逸男)

 トランプ氏とヨーロッパ諸国の軋轢となるのか、あるいはトランプ氏になじんでいくのか。昔ならヨーロッパの一国一国がアメリカに寄り添っていたものだが、今はヨーロッパが一つになってアメリカに対抗しているように見える。
 

歩行距離
12月20日(火)朝0・5キロ昼0・5キロ計1・0キロ
        200メートルを超えたあたりから上りになったので苦しかった。初めての500メートルだ。午後は200メートル過ぎたら足が上がらなくなった。400メートル過ぎて元に戻った。
   21日(水)朝  -
        病院へ行った。足がどうも上がらない。
   22日(木)朝0・5キロ昼0・1キロ計0・6キロ
        1日遅れの500メートルもクリアーした。苦しいが何とかセーフ。午後は雨が止みそうだが、少し降っていて風が強かった。
   23日(金)朝0・4キロ昼0・6キロ計1・0キロ
        風が強かった。午後は500メートルで42分。600メートルを歩いた。
   24日(土)朝0・5キロ昼0・6キロ計1・1キロ
        500メートル、600メートルもまずまずだった。
   25日(日)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        行きはまずまず、帰りは団地に着いたらメロメロだった。500メートル35分。午後は足が少し上がらない。500メートル37分。

2016-12-19

『ライ麦畑でつかまえて』(j・d・サリンジャー、野崎孝一訳、白水Uブックス)


 白水社がなぜこの本を出版したのか想像もつかない。またなぜ買ったのかも思い出せず、小説のタイトルに騙されたのか。30年前の小説にしてはちり一つない装丁に、一度読んだら本箱の隅に置かれていても不思議はない。
 「ライ麦畑でつかまえて」という歌があったらしい。180ページに1か所だけ。それから268から269ページにかけて、詩の『ライ麦畑でつかまえて』、いや『ライ麦畑で会うならば』が本当だ、という個所が5行にかけてあるだけだ。
 高校を退学になった少年が家に帰るまでの数日間を、友だちや、先生、家族に電話したり、会ったり、おまけに西部に行くとまでいって、そのくせ止めるという純情可憐な物語である。
 言葉づかいが独特であるらしい。らしい、というのは日本語ではピンとこないせいだ。かなり世間のことに反発しているが、もう一息言ってもいいのに止めてしまう。女の子に電話しようとして、これも結局止してしまう。はっきりした理由がない。夜だからというためらしい。個性的な文体と言えばそうなのだろう。
 訳者は語尾に注意したという。「誰にでも見えるようにしてやがったな」というように、語尾に神経を凝らした。しかしそれは訳者の思い込みであろうと思う。小説を読む身になっていると、またか、という思いがしてくる。
 サリンジャーの文体は、50年代アメリカのティーン・エージャーの口調を、的確に捕えていると推賞され、遠い将来には、口語を探る資料として読まれるであろうと、と訳者はいう。それは原文を見ないと分からないが、ただ訳者が日本語に訳すことは至難であるというのは当たっていると思う。
 『ライ麦畑でつかまえて』を読みながら、私の中学時代を思い出していた。中学3年のとき、Тが私にあることを語った。彼の隣に住んでいる中学2年の女の子とデートをした。それが巡り巡って彼の部屋に女の子を誘った。女の子は応じた。
 二人はキスをした。それから・・・その日は休日で彼の両親は外出し、弟も野球をしに行っていた。彼は私にそれからのことは話さなかった。「やることはやるんだ」、「やりたいけど引返した」という『ライ麦畑でつかまえて』の主人公と同じセリフが聞こえてきたようだ。Тとは10年後、東京駅の地下街で偶然出会った。タクシーの運転手であった。


歩行距離
12月5日(月)朝0・6キロ昼1・0キロ計1・6キロ
        朝は交差点の方へ200メートル行って戻った。100メートル7分だからまずまずだが、からだがしっくりきていない。
        昼は全棟一周。行きの500メートルが38分、帰りの500メートルが39分。これも昔に比べればいい方だ。後半は疲れたのか、遅かった。
   6日(火)朝 病院へ行きます。


  15日(木)朝  -  昼0・2キロ計0・2キロ
       全然足が上がらなくなった。自宅前100メートルと階段などを歩いた。
  16日(金)朝0・2キロ昼0・3キロ計0・5キロ
       100メートル過ぎると足が上がらなくなる。
  17日(土)朝0・3キロ昼0・3キロ計0・6キロ
       最後の100メートルは足を出したり引っ込めたり、上がらない足を無理に上げたりと苦闘した。午後は足が出たり出なかったり。
  18日(日)朝0・3キロ昼0・4キロ計0・7キロ
       朝は0・4キロにしたかったが、足が重すぎた。

2016-12-04

『M/Tと森のフシギの物語』(大江健三郎、岩波書店)


 大江健三郎も久しぶりだ。この物語を選んだわけは司修の装丁が見事なことと、それに加えてどのページも活字の背後に絵が描かれていることであった。両端に木が描かれていてその真ん中に谷間と思しき村々が広がっていた。
 どのページも薄い茶色である。活字が隠れてしまわないのか、そのようなことはなかった。挿画もいくつかある。各章の始まりとページのいくらかにはさんであるのだが、私の感想では本のイメージとはかけ離れていた。ただ子供が蝋燭をたどっていく場面と祖母の画像ははっきりしていた。
 M/TのMとは、メイトリアークつまり「女家長」、Tとはトリックスターつまり「手際のいいやつ」、女家長とはオシコメ(大醜女)に代表される長い髪を肩から背にすきながして、雲にさえぎられた足頸のところまで寛衣をまとった大女、手際のいいやつとは亀井銘助に代表されるような滑稽でいて藩に負けぬもの、という意味らしい。
 大江健三郎の伝説と歴史の入り混じった土地、それについてこの小説が初めてなのかあるいは何冊かあるのか、今は忘れてしまった。とりあえず「壊す人」からはじめたい。彼は藩主の縁つづきの末の弟で、兄嫁とともに二十五人の若者と城下町から追放されたが、自由に新天地を求める指揮をとるようになった。
「壊す人」は村の基礎をかためて行ったが、それがたたって仲間を谷間に下ろし、自分は森のきわに住んで仲間の仕事を応援したという話である。彼は伝説上の人物である。
 次はオシコメと呼ばれた大女の話だ。若者は谷間と「在」で土地を耕し、安定した暮らしを始めたが、そのうちひずみを取り除こうとする話で、オシコメはその「復古運動」を推し進めるリーダーであった。これも伝説である。
 歴史上の人物は亀井銘助である。一揆の指導者であるが、結局、城中の牢内に押し込められ死んでいった。銘助母は彼の死の何日か前、次のようにいったという。「大丈夫、大丈夫、殺されてもなあ、わたしがまたすぐに生んであげるよ」
 それから終戦前の時代、および現在の家庭。光の話は何度でも聞いたことがある。最後の話だ。「もう五十歳を越えて、おおいにトリックスターの仕方でながら、生の経験をかさねることはしてきた僕の前に、微光に照らし出された「森のフシギ」がリンリン鳴る音楽の合図をよこし、魂をみがくためにもっとも頼りになる最後の言いつたえを、おそらくはメイトリアークの女性の声音で、語りかけてくるのを待ち受けながら・・・」


歩行距離
11月28日(月)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
        痛くはないが、足が前へ進まない。交差点の方へ1キロ、戻って2棟横から4棟前で500メートルの休憩、戻って2棟横からベランダ伝いに行って帰る。午後はと思って外へ出たら、風が強くて吹き飛ばされそうになった。止めた。
   29日(火)朝0・8キロ昼0・4キロ計1・2キロ
        交差点の方へ100メートル、戻って2棟横へ100メートル、風が強いのでそのまま帰った。午後は交差点の方へ100メートル行ったところで、強い風が吹いてきてそのまま帰る。
   30日(水)朝  -  
        今日は病院へ行った。心電図の検査が大変だった。ペースメーカーの電池切れで近々入院である。
12月1日(木)朝  -  昼0・8キロ計0・8キロ
        10時か11時頃には晴れた。300メートルまでは快調だった。7分を切るかという勢い。その後ががたんと落ちた。300メートルを500メートルまで上げよう。
   2日(金)朝0・5キロ昼1・0キロ計1・5キロ
        朝は出るのが遅くなっちゃて0・5キロでおしまい。
        午後は交差点の方へ200メートル行って戻り、残りは1棟前を5周した。7分から7分半。こんなものかな。
   3日(土)朝0・4キロ昼1・0キロ計1・4キロ
        また遅くなった。前足がなかなか進まない。
        午後は100メートル往復、200メートル往復、100メートル往復で帰った。7分から7分半。
   4日(日)朝1・5キロ昼  -  計1・5キロ
        バスでスーパーへ行った。少しタイムが出て上り下りのバスも余裕があって、久しぶりに快適だった。帰りは11時ごろになったので昼は休み。




2016-11-27

『小説渡辺崋山』(杉浦明平、朝日新聞社)


 『小説渡辺崋山』全8巻を読んだ。第1巻は前に書いたので、2巻から8巻までをこの回のまとめとする。渡辺登(崋山)は第1巻で交際範囲も広いと書いたが、本多秋五は解説の中で「形も色も材質も大小も種々雑多な題材が、まるで洪水のようにつぎからつぎへとおし寄せてくる」と書いている。
 小説では9割5分がた実在の人物らしいが、登の絵の女生徒与野だけは違うそうだ。これは小説だけでは分からない。解説が熱心に調べた結果である。与野のからだを夢にまで見ながら、登は一線を越えてはならぬと言い聞かせている。
 与野のからだの代償であろうか、品川宿のお竹と通じ合う。しかしここでも与野の思いが忍び寄ってくる。登の女房おたかは与野をひどく憎んでいるようだが、お竹とは気軽に会いに行かせているらしい。登とおたか、それに与野とお竹、それぞれの事情がありそうだが、創作的人物与野と登との関係がこの作品を引っ張っていることだけは確かである。
 さて「雑多な題材が洪水」というように、誰を取り上げてもそれなりの人物だ。しかしここでは鳥居耀蔵を選んでみたい。彼は強硬な攘夷主義者であるが、手段を選ばぬ悪の親玉でもある。登を不倶戴天の敵として幕府をあやつっているが、資料を読むと、時が移って鳥居自身失脚、財産没収となっている。
 鳥居はだいたいみんなに恐れられているが、なぜ権力をほしいままにするのか。彼の手下がいうことには、「あのかたほど他人のどんな些細なあやまちでもすぐ目にとまる人はいない。が、あのかたほどじぶんの身内のあやまちを大目にみてくださる人もいない。」
 またもう一人の手下はいう。「このひとにくっついているかぎり、多少のあやまちなど守ってもらえるが、うっかり敵にまわしたら、どんな報復をうけるか、身にしみて感じた。」つまり身分の框(かまち)をこえるような言動が一度でもあったら、ぜったいに許してもらえないことを知っていた。
 彼は民主的社会では生まれてこない。本来ならそうである。しかし現代でも、もっと違う形で生まれてきている。
 最後に登の最も信頼のおける人を紹介しよう。私の知らない人物だったが、椿椿山である。登の弟子の一人だったが、囚われの身となった登の中心的な援護者である。飯を喰らうこと少なく、遊行少なく、眠臥少なく、言語少なく、墨を磨ること少なく、筆を着すること少なく、色を点ずること少なく、酒を飲まず、女を近づけず、タバコを喫せず、ただ楽しむところは居合抜きと横笛だけ、という椿山は登の不運をあわてなかった。
 救援活動の中心だけあって、誰か彼かに登の近況を伝え、誰かの現金を登に与え、また椿山自身馬をけって誰それのところに急いだ。椿山は絵のこと以外登の交際に立ち入らぬ建前であったが、30年近くも登のところに出入りしていれば、彼らに自然と口をきくようになったのだった。
 1841年10月11日、登は田原藩の村はずれ、自宅の裏の櫨小屋(はぜ、漆の一種)へ向かった。日田喜大夫(大蔵永常、登の農業指南だが、藩から追い立てを食った))が砂糖水を煮つめていた小屋で、今では蝋をしぼるための櫨の実が貯えてある。そこで登は咽喉元に刀を突きだしたのである。田原藩は登にとって他人事のようだった。


歩行距離
11月21日(月)朝1・0キロ昼0・4キロ計1・4キロ
        寒い1日だった。1棟前を往復する。100メートル7分から7分半。午後     はと思ったが、右足が上がらない。おまけに雨が降ってきたので中止した。家へ帰ったら雨は上がっていた。
   22日(火)朝  ―  昼1・0キロ計1・0キロ
        雨が降っていたが、6時ごろには上がった。しかし8時ごろ日が照ってきたので歩こうと思っていたら、道路は雨水がたまっていたので中止した。午後は交差点の方へ200メートル、そこで引返して2号棟の横へ入る。調子はよくない。
   23日(水)朝0・2キロ昼  -  計0・2キロ
        ゴミを捨てに行って、歩こうとしたら、風がものすごくてからだが吹き飛ばされそうになった。中止した。
   24日(木)朝昼 雪
   25日(金)朝0・4キロ昼0・6キロ計1・0キロ
        足が痛かった。どこまで行けるのか交差点の方へ行ってみたが、100メートルの地点でUターンした。午後は交差点の方へ200メートル行って引き返した。
   26日(土)朝1・3キロ昼  -  計1・3キロ
        バスを使ってスーパーに行く。行きも帰りも家からバス停まで40分。こんなものか。右足が前に出ない。
   27日(日)朝  ―  昼0・5キロ計0・5キロ
        足が前に出ず500メートルでやめた。この1週間で治るといいのだが。

2016-11-20

杉浦明平『小説渡辺崋山』(一)失意、朝日新聞社

 小説渡辺崋山は全8巻である。その(一)について解説する。
 田原藩は渥美半島のちっぽけな藩である。渡辺登(のぼり)(崋山)は田原藩の藩士だが、江戸で生まれ育った。田原藩の藩主はこの世を去り、その後釜を巡って藩は二つに分かれていた。
 渡辺登は田原藩主三宅氏の四男を目指そうとしたが、田原藩の役人は貧乏から逃れるため大名の子息を養子にして、藩の財政を貧乏くじから救い出した。渡辺登は悔しい思いでいっぱいだった。それが(一)失意である。
 登は長男として家を継いだが、二人の弟と妹は家を出されそれぞれ無残な死に方をした。それに登は何の抵抗もできなかった。幕末とはいえ母親がいたということもあっただろう。妻のおたかは登を拒んだことはない。義務的に応じるのだ。
 嫁に来て6,7年が経ち子供を産んだが、夜は相変わらず身動きしないよう気をつけている。襖をへだてて母親がいるからである。登がおたかに冗談をいうと娘のように笑った。母親が不在だとこのようだった。
 登は絵で給金の少ないのを補っていた。また交際範囲も広い。漢学者から蘭学者まで登の腕の確かさから集まってくる。(一)失意は、嫁おたかの話は3ページにとどめ、あとの300ページ余はこの漢学者・蘭学者である。
 (一)は20章であるが、その中からいくらか選び出してみよう。鈴木春山は三宅氏の四男を支持しているにもかかわらず、後継を重要視していなかった。「一万二千石の殿さまが誰であろうと、日本の運命にたいした変わりはない。ぼくは、日本のどこかまだ行ったことのない史蹟でも見物して来たい」
 春山は渡辺家の助手に採用してもらった。どこでも好きなところを歩き回る許可が欲しかったのだ。それで長崎まで歩を進め、東海道七十五里を二日で歩いて、三宅屋敷に入ったのである。
 お蔭参りもおもしろい。これも鈴木春山の話である。「近江路から伊勢街道筋は参宮の人間がつかえて先に進めません。お蔭参りは六十年ごとにはやるそうだ。伊勢の方でも通過する参詣人に菓子や菜漬けで接待していた。一日二十万人はくだらない」
 「はじめはぞろぞろ歩くだけだったが、そのうちエッサエッサと踊りがまじってにぎやかになったと聞いた。7月には大地震だったのに、お伊勢さまの神罰だと、都びとがエッサエッサと押し出した」
 登は幕藩体制を敵に回す姿はない。


歩行距離
11月14日(月)朝1・0キロ昼1・0キロ計2・0キロ
      快調だ。何がいけなかったのか。足が前に出せる。100メートル6分30秒から7分だ。午後はどうなのか、楽しみだ。
      午後は調子がよくない。7分半くらいで推移した。ただ右足を持ち上げて前へ出すという感じはつかめた。
   15日(火)朝1・0キロ昼0・6キロ計1・6キロ
       交差点の方へ200メートル行って引き返し、2棟の横を200メートル行って引き返した。6分30秒が最高だ。まだ行ったり来たりか。
      午後は1棟前を歩く。7分ぐらいか。足がおかしいので6周でやめた。
   16日(水)朝1・9キロ昼  -  計1・9キロ
        病院へ行った。小さいバスの停留所まで0・7キロ、次のバス停から病院お抱えのバスまで0・1キロ、帰りは薬をもらうこともあってバス停まで0・3キロ、バスの乗り換えで0・1キロ、あとは団地まで0・7キロ。どういう訳か帰りの0・7キロが100メートル6分だった。
   17日(木)朝1・4キロ昼  -  計1・4キロ
       銀行と買い物でバス停から駅に行った。今日は歩き方がよくない。昨日はよかったのに。そのうちにわかるだろう。
   18日(金)朝1・0キロ昼0・8キロ計1・8キロ
       交差点の方へ100メートル、戻って2号棟横から4号棟入口へ200メートル、戻って2号棟ベランダ沿いに100メートル、これで100メートル7分半だ。午後は1号棟前を歩く。100メートル7分と午前中よりいい。800メートルでおしまい。
   19日(土)朝  -  昼  -  
       みなとみらい系の病院へ行った。雨だったので比較的空いていたと思う。
   20日(日)朝1・6キロ昼  -  計1・6キロ
        交差点からバスに乗って洪福寺で降りてスーパーに行った。いつもと違って5分遅く着いた。日頃のバスより一つ遅いバスなので楽だ。バス停から我が家まで37分。行きも同じだった。半年かけて30分を切りたい。

2016-11-13

ドストエフスキー『白痴』(小沼文彦訳、筑摩書房)


 ドストエフスキーを読みたいと思ったのは、近頃は文庫本ばかり読んでいたのでたまにはドストエフスキーもいいだろうということだった。江川さんの『罪と罰』『カラマーゾフの兄弟』は「謎とき」におもしろみがあったが、それはそれとしてまたあとでじっくり読もうと思っていて、ここでは『白痴』を選んだ。「謎とき『白痴』」もある。
 『白痴』は貴族階級と庶民とのやり取りを主人公のムイシキン公爵が間に入ってとりもつ話だ。とりもち方が愛であること、それが公爵の流儀であった。それゆえ誰からも好かれていた。その間に公爵の〈白痴〉=てんかんの症状が本の中ほどにある。
 第1篇の最初のころに死刑の話が出てくる。ムイシキン公爵は死刑囚の男を見た。その男は頑丈で堂々としていたが、断頭台の階段に差し掛かるところで泣き出してしまう。そしてその上に立つと泣くのは止めて十字架に接吻した。ドストエフスキーは自分が美術館で見た絵を題材にして書いたものである。2ページと少しの話であるが、私の印象に残っている。
 ナスターシヤ・フィリッポブナという女性がいる。ある時代、彼女の五感に訴える影響に屈してある男を好きになったのであるが、また一方贅沢をしほうだいにするがそれを嫌悪する傾向もあった。結局ナスターシヤはその男と別れてしまう。彼女にはこういう過去があった。
 アグラーヤという令嬢がいる。三人娘の中で彼女が一番美貌で、また落ち着きがない性格だ。自分の家のサロンでみんなと話し合っているとき、彼女は泣いたり、わめいたりと、私には可愛げがあった。
 ムイシキン公爵はこの二人を好きになった。最後のムイシキン公爵とアグラーヤの緑のベンチの場面はいい。しかし結局ムイシキンはナスターシヤと結婚するのだが、純真な公爵を犠牲にしたくないと彼女はムイシキンの恋敵に走っていった。ムイシキン公爵は絶望的な気持ちになって、白痴の治療にスイスへ送り返される。これがあらすじである。
 入れ替わり何人ほどがこの物語に登場してくるのか。彼らはセリフをもっている。第4篇の入口でドストエフスキーは書く。「『取り立てて言うところのない』人とか『大多数』という名で呼ばれる人たちであって、事実上あらゆる社会の絶対多数を構成している人々である」。ロシア人の名前もあって、私には錯綜としてくる。
 『白痴』は作者を激賞する人もいれば、第2篇以降はけなす人もいる。私は激賞したくはない。

歩行距離
11月7日(月)朝0・6キロ昼
        風が強かったが、それにしても足が出なかった。600メートルでやめた。
       午後は3棟の端の階段を下り、そこから急な階段を気をつけながら下りて、坂の途中まで行った。帰りは全く同じだが、端の階段には左の手すりがないので、後ろ向きに上がっていった。足はいいのか悪いのか、よく分からない。タイムもなかった。
   8日(火)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
        行きの500メートルは交差点の方100メートル、帰りの500メートルは2棟の横100メートル、それぞれ折り返した。タイムは100メートル7分30秒から8分。午後はあまりにも寒いので休む。
   9日(水)朝  -  昼  -  
        寒い朝で強風が吹いていた。午後も強風だ。
  10日(木)朝0・6キロ昼0・6キロ計1・2キロ
        寒いし風も吹いていた。午後も同じ。
  11日(金)朝  -  昼  -  
        荒れた天気。
  12日(土)朝1・3キロ昼0・5キロ計1・8キロ
        バスでスーパーに行った。今までで一番悪いようだ。歩くときの足が上がらない。団地からバス停まで40分。帰りはもう少しかかったか。
        午後は1棟前5周。
  13日(日)朝1・1キロ昼0・8キロ計1・9キロ
        小さいバスに乗る練習を兼ねて、交差点を右に曲がって、100メートル手前まで行った。ここから前のバス停まで駐車場のためか、アップダウンが激しい。そこで反対路線を歩くことに決める。歩道が広いし足の上げ下げが楽そうだ。
        午後は2棟前100メートル往復、2棟横100メートル往復、1棟ベランダ側100メートル往復、そこで風が強くなったので切り上げた。

2016-11-06

ドイツの大転換


東京新聞の社説である(10月29日)。抜き書きである。
3,11の年。「原発はいらない」と書かれた黄色い旗が、カボチャの飾りとともに目についた。
「なぜこんなに、福島の事故を恐れるの」
 異口同音に問い返された。「福島は日本じゃないの」
ドイツの反核、反原発の歴史は深い。東西冷戦の最前線で核ミサイルを目の前に突き付けられた恐怖は、国民的トラウマ(心的外傷)と言っていい。
ドイツは原発事故の当事者にはなっていない。だが、ドイツ市民には原発事故の当事者という自覚が強い。2000年にはすでに、時のシュレーダー政権が脱原発の方針を打ち出していた。
 3・11の前年、メルケル首相は運転寿命延長による原発の再浮上を図ったが、フクシマの惨状を目にして急転換。原子力の専門家以外で構成する倫理委員会の意見を優先させて、22年までに全原発の段階的廃止を決めた。
 メルケル首相が恐れたのは、チェルノブイリやフクシマの再来を正しく恐れる民意である。
 一方、欧州では、日本とは段違いに温暖化への危機感が強い。
 昨年末のパリ協定は、石油、石炭など化石燃料の時代の終わりを予言した。とはいえ原発はそれ以上に恐ろしい。生命が大切ならば、再生可能エネなのである。
 環境や倫理だけではない。福島や温暖化への危機感をバネにした再生可能エネへの大転換には、やがてそれが巨大な世界市場を形成するとの読みもある。だから大手電力を含む経済界も、連邦政府の方針を受け入れざるを得ないのだ。
 「国民の8割以上が再生可能エネルギーの拡大に賛同しています」。シュタインマイヤー外相の手記の行間、浮かんできたのはやはり、あの言葉。
 「福島は日本じゃないの」(終わり)

 首相や経済界は、再生可能エネルギーへの大転換など知ったことではないか。


歩行距離
10月31日(月)朝1・0キロ昼1・0キロ計2・0キロ
         天気がいい。団地1周。最初の500メートル39分50秒。後半の500メートルは39分45秒。まずまずだ。
         午後は交差点へ行く方、100メートルで戻る。あとは1棟前を8周。タイムはよくないな。
11月1日(火)朝  -  昼  -  
        雨、昼も雨だがすぐに晴れた。
   2日(水)朝1・0キロ昼0・8キロ計1・8キロ
        書いた記事を消してしまった。
   3日(木)朝1・0キロ昼1・0キロ計2・0キロ
        交差点の脇の公園に行った。行きも帰りもこんなものか。往復それぞれ40分。
        午後は1棟前を10周。力を入れたら、1周7分10秒で歩いた。これはいい。休憩して後半は1周6分30秒。もう何が何だか分からないくらいタイムが出た。明日が楽しみになってきた。
   4日(金)朝1・0キロ昼
        交差点までの100メートルと2号棟横を含めて1キロ歩いた。昨日の夜はあまり寝てないせいか、7分から7分20秒だった。右足がおかしい感じがする。
   5日(土)朝1・6キロ昼0・5キロ計2・1キロ
        15分のバスに乗るために少し早く出た。結果は35分だった。洪福寺で降りて歩く。20分バスに乗っても降りた後は足の調子がよくない。帰りもバス停から団地まで35分だった。
        午後は1棟前を5周した。10周を予定していたのだが、無理やり足を前に出していたら変な具合になっていて、5周でやめた。それぞれ6分30秒。
   6日(日)朝1・0キロ昼  ―  計1・0キロ
        交差点脇の公園まで行った。信号が見える上りと下りの坂道では、珍しいことに信号に行く車だけで反対車線は1台も通らなかった。調子が悪い。40分ずつだった。

2016-10-30

『十五少年漂流記』(ヴェルヌ、金子博訳、旺文社文庫)


 ヴェルヌは表題作のほか、『海底二万里』『八十日間世界一周』などがある。この『十五少年漂流記』は明治二十九年森田思軒によって翻訳されるや一世を風靡した。しかし漢文直訳体なので後にはすたれてしまった。「好朝、君よ」とは何だかわかるだろうか。Good morning, sir の直訳だそうだ。
 ヴェヌルは35歳から死ぬ77歳まで年に2冊は書いていた。そういう理由もあって60歳で書いた『15少年漂流記』は誤りも多いらしい。地名や年少者の人名は訳者が直している。
 十五人の少年を乗せたスクーナー船(三角帆の帆船、この船の場合100トン)はある島に遭難した。この島で4人の少年が年少の少年たちと小屋を建て寝起きを共にする。ここで2年を過ごした。『2年間の休暇』がフランス語の原題である。
 ブリアン、ゴードン、ドニファン、見習水夫のモコが嵐を切り抜け小屋を守るのだが、私には病気とトイレをどう処理したのか、気にかかった。著者が次々と起こる風と雨、数日かかる探検、少年の葛藤などを読者に飽きさせない工夫は分かる。
 しかし2年間のうちに誰が病気にならないだろうか。毎日のトイレはどうしたのか。不思議である。


歩行距離
10月24日(月)朝2・0キロ昼1・0キロ計3・0キロ
         体操の時間を減らして7時前には家を出て、交差点を過ぎ900メートルの休憩所まで歩いた。それから下りにかかってまっすぐ行きテニスコートの20メートル手前で右折して、階段を上がる。それからもとへ戻る。階段を上って200メートルが苦しいな。タイムは昔と比べれば書かない方がいい。
         午後は1棟前を10周。だいたい7分半。これからもう少し上げたい。
   25日(火)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
         ちょっと寒い。1棟前を10周。7分半から8分。気持ちいいがタイムが出ない。足が上がらない。これで良しとしようなどといっていられない。午後は曇って帰りにはぽつりぽつりと雨が降りそうなのでやめにした。
   26日(水)朝1・5キロ昼1・0キロ計2・5キロ
         公園事務所の前まで行った。帰りは一生懸命歩いたらバス停から団地まで35分だった。午後は団地内1周。48分と45分。風が強いせいもあるが、午後は調子がよくない。
  27日(木)朝0・5キロ昼0・2キロ計0・7キロ
        風が強かった。吹き飛ばされそうになって立ち止まって踏ん張った。結局5周でやめた。午後は風が止んでいると思っていたが、相変わらずだった。
  28日(金)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
        うすら寒い日だった。交差点の方へ200メートル行って戻り、2棟の横を200メートル行って帰った。行きの500メートルがちょうど40分、帰りが42分だった。こんなものだがいつもいっているようにもう少し速く歩きたいものだ。午後は雨が降ってきた。
  29日(土)朝1・6キロ昼  -  計1・6キロ
        バスに乗って洪福寺で降りて、スーパーへ行く。昔は10分で行ったが、今は15分だ。帰りは18分に店を出たが、バス停まで42分かかった。バスは行ってしまったかと思ったが、4分遅れてきた。間に合ったのだ。
  30日(日)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
        1棟前を10周。寒い日だ。37分だから、まずまずか。
        午後は玄関を出たら風が吹いていた。そのまま2歩、歩いたら、真っ向から吹く風に押し戻された。これはいけない。止めだ。

2016-10-23

原発処理


原発処理 総額30兆円

 原発政策を進めるには原発建設費、地元補助金が必要であるが、それらを除いて関連の処理費用として福島第1原発の事故処理、各地域の廃炉、最終処分場建設、核燃サイクルに最低でも30兆円かかることが分かった。(東京新聞10月20日朝刊)
 「福島第一原発の処理に必要なお金は、除染費が3・3兆円、被災者への賠償金は6・3兆円、廃炉費も2兆円、総額12兆円以上かかりそう。東電では経営努力で賄えない部分は、電気代を通じて国民に負担を求める方針である。
 東電を除く原発の廃炉費用問題では2・9兆円のうち一部を電気料金に上乗せする方針だ。
 また、使用済み核燃料をリサイクルする計画の柱だった高速増殖炉「もんじゅ」の廃炉方針に伴い、経産省は代わりの高速炉を開発する。政府はすでに核燃サイクルでは11兆円を費やし、電気代や税金で国民が負担している。
 核のごみの最終処分場は場所がまったく決まっていないが、政府の試算では最低でも3・7兆円がかかる。
 すでに国民は電気料金や税金で14兆円を負担しており、今後、さらに16兆円以上の負担を迫られる可能性がある。(引用あり)」
 以上国民の負担はもはや耐えられない。原発の廃炉以外道はない。

原発温存のムダ 福島第二原発
 福島第二原発はどうなっているのだろう。第一原発から南に12キロ離れている。東京新聞20日「こちら特報部」から引用しよう。
 2011年3月11日の東日本大震災発生時、第二原発は全4基が稼働していたが、大きな揺れで、全基が自動停止した。その約45分後、津波に襲われ、海抜15メートル以上にある1号機の原子炉建屋や海水熱交換器建屋が浸水し、1,2,4号機の原子炉冷却機能が失われた。
 翌12日、1号機の圧力抑制室の水温は100度を突破し、メルトダウンと爆発の危機にひんした。しかし混乱の中、外部電源4回線のうち1回線を使用できることが判明した。職員約200人が800メートル離れた場所から建屋まで巨大なケーブルを担ぎ、送電を再開し、最悪の事態が回避された。
 燃料棒が発する崩壊熱が落ち着くには30-50年かかるため、事故から5年以上たった今でも冷却作業は欠かせない。しかし東電は、福島県で原発の過酷事故を起こしたにもかかわらず、福島第二原発の再稼働の可能性を残している。(引用あり)
 東電を救済するためという再稼働の目的がそもそもおかしいのだ。

(今週は本来「1キロの床屋」を出すつもりだったが、脱処理がうまくゆかず、仕方ないから来週のを出した。歩行距離はありません)

2016-10-16

『アカシアの大連』(清岡卓行、講談社文芸文庫)


      春

 てふてふが一匹韃靼海峡を渡って行った。

 韃靼(だったん)海峡とは間宮海峡である。安西冬衛の一行詩である。1970年(昭和45年)に『アカシアの大連』に引用された。1988年(昭和63年)に文庫化されている。私が43歳の年だ。今でもはっきり覚えている。一匹の蝶々が海峡を渡る後ろ姿、何という不思議な光景だろう。
 清岡卓行は『アカシアの大連』の中でこう語っている。「北方の韃靼海峡という地理的な国際性の荒荒しい危難が舞台になっている。そしてその激浪あるいは凪の上を、若若しく可憐な生命を象徴する一匹の蝶が、大胆にも軽軽と渡って行く。それは、短編アヴァンギャルド映画にでもしたいような緊迫の動的なイメージであり、そこに、春のふしぎな情緒がかもしだされている」
 さて『アカシアの大連』は私に大それた感じが付きまとうとの印象を与えたが、それは思い出の品々が次から次へと出てきて、もういいという思いを持ったためである。しかし作者が生まれてから26歳までを生きたことをないがしろにできない。私には大陸に生まれ育った経験はないが、雰囲気は理解できる。
 巻末の作家案内に、『アカシアの大連』の芥川賞選評が出ている。「文章も正確」で感覚も健康でみずみずしい」とした井上靖、「清新な感受性と、作品の詩的な、もしくは音楽的な構成」を評価した大岡昇平に対し、滝井孝作は「大方が甘い詠嘆と感傷だけ」と意見は二つに分かれた。
 このような読後評があるだけに私の文はこれくらいにしたい。

 この本には『朝の悲しみ』が冒頭を飾っている。大連で妻をめとったが日本に来て20数年後に死んでしまう。その妻をいとしむ物語だ。息子二人の面倒を見ながら回想をはさむ。前半はいい。しかし後半がよくないように見える。後妻の話だ。
知人友人からもらってほしいと話が舞い込むが作者は乗り気がせず、自分でこれがよさそうだと思っていたら、振られてしまう。私にはこれは余計だ。自分が照れてしまいそうだ。彼は本気かしら。
音楽の話も付け足しみたいだ。メシアンという作曲家のレコードをよくかけた。なるほど理にかなっているが、それだけの話である。


歩行距離
10月10日(月)朝1・7キロ昼  -  計1・7キロ
      晴れていると思ったら曇りだった。野菜がなくなったので是が非でもスーパーへ行かなくてはならない。我が家から40分掛かってバス停に着く。ずいぶんかかったものだ。そして駅前のバス停について驚いた。スーパーは今日から4日間休みだ。クレーンのついた大型トラックが店の前に置いてある。
      どうしたらいいのか一瞬迷った。こういうときに迷うのは私の経験上ない。仕方ないからバス停に戻って、バスで二つ先まで行って別のスーパーに行った。
   11日(火)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
      1棟前を歩く。どうしても足が上がらない。蹴ろうとしても右足はちょっと動くだけだ。飽きないけど、できない。できないけど、飽きない。
   12日(水)朝2・0キロ昼  -  計2・0キロ
      今日は診察の日だ。交差点まで歩き、そこから300メートル行くと小さいバスの停留所がある。そこからバスに乗る。運よく小さいバスを降りたら相鉄バスがすぐ後ろに来ていた。
      帰りはどうしようか、相鉄バスか、神奈中バスか、頭の中で考えていたら相鉄バスがすぐ来たので乗った。行きと同じだ。ただこのルート、要領がよくない。1時間に1本のバスでは25分待った。まあどっちもどっちだ。
   13日(木)朝1・0キロ昼
      ひんやりした朝だ。銀行に行こうと思ったが、寒いから止めた。保土ヶ谷で手紙を出そうとしたが、団地内のポストに入れた。2号棟を行ってまた戻り、1号棟の反対側を戻って1棟前を2周した。今日は右足を前に出す練習。タイムは遅い。
   14日(金)朝1・3キロ昼  -  計1・3キロ
      今日は野菜がまったくなくなってしまったのでスーパーへ行った。団地からバス停までは相変わらず。スーパーは混んでいた。月曜日に4日間休みと書かれていたから、今日が売出日なのだろう。レジは混雑している。違う日に来ればよかった。でも今日だけは来なくてはいけない。帰りのバスを降りて、団地まで1番きついか。
   15日(土)朝0・7キロ昼0・8キロ計1・5キロ
      今日は足が全然動かない。痛みはない。だけどどこへ足を置いても、そこだけ動くには動くが、蹴りだせない。動かなくたって少しは動けばいいや、という段階ではない。どこを動かそうとしてもダメだ。もう一度やってみる。
      朝よりからだの動きはいいようだ。100メートル7分15秒。外から見ていると同じなのかな。いずれにしても同じペースで歩いて行った。最後は8分台になって止めた。
   16日(日)朝1・8キロ昼  -  計1・8キロ
      精一杯力を込めて歩いた。100メートル7分。交差点の先のバス停まで40分か。同じだ。バスに乗る。バス停で降りて200メートル歩く。15分、これも同じだ。スーパーを出て300メートル歩いて1番近いバス停へ。帰りは同じ。団地まで同じだ。

2016-10-09

彼岸花


 彼岸花はマンジュシャゲ(曼珠沙華)ともいう。秋の彼岸に咲く花だ。葉のない茎のてっぺんに赤い花を咲かせる。赤い花といっても花びらが、いってみれば毛糸のようで放射線状に巻いている。
 彼岸花が私の雑草畑に咲いた。14,5輪はあるだろうか、1列に咲いていた。雑草畑などといって悪かった。私は昔、墓参りに行くと彼岸花を見た。赤い花が1面に、いや1列に咲いていたものだ。
 子供のころのオレンジ色っぽい赤い彼岸花は好き嫌いもなかった。しかし大人になって彼岸のころにちょくちょく見るようになってから、あまり好きではなくなってきた。赤が派手すぎるのだ。その上、毛糸のような放射状の花がこれ見よがしに咲いている。ひっそりと咲いてくれればいいのに。
私は裏庭を雑草畑といってしまうが、そこに咲く花でもない。誰が植えたものではない。散ってきたのだろう。2週間経つと枯れていた。ところで写真ではないのが残念だが、彼岸花の横に、長さ5メートルくらい、幅1メートルの雑草畑に、赤と白の見事な花々が咲いている。日日草と思えたが、大柄の葉だから違うものだ。これはいい。

歩行距離
10月3日(月)朝1・0キロ昼  -  計Ⅰ・0キロ
      降る心配はないのに500メートルを過ぎたら雨が降ってきた。強く降ってきたと思ったら小やみになった。この季節の雨だ。1棟前の軒下を行った。100メートル6分2,30秒か。昼はどうなんだろう。
      午後は風が強く、雨は降っていなかったが黒い雲が空一面に広がっていたので休みにした。
  4日(火)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
     交差点の先のベンチで一休みして、戻ってきた。200メートルから300メートルの坂がきつい。タイムを測る気もしない。行きも帰りも37分だ。
      行きが25分なんて夢のようだ。
  5日(水)朝1・0キロ昼1・0キロ計2・0キロ
     曇っていたが、雨はなさそうだった。明日は床屋に行くので、その練習を兼ねて500メートル、1キロと想像して歩いた。結局1時間15分かかっ
た。階段や坂道があるので5分は余計にかかるか。
昼は公園へ行く道を100メートル、戻って2号棟の駐車場へ100メートル行って戻り、2号棟のベランダを行き4号棟の玄関を回って戻り、1号棟のベランダを途中まで行って戻り、そのまま帰宅した。1キロ。どんな場所へ行っても100メートルの区切りは分かっていた。午前中と同じタイムだ。
    6日(木)朝2・0キロ昼  -  計2・0キロ
      今日は床屋に行った。バスで行こうか歩いて行こうか、迷ったが、行きは歩き、帰りはバスにした。行きは1キロである。4号棟を抜ける階段がきつかった。昔は左手で階段のてっぺんより一段低い棒を頼りにして歩くのだが、足は交互に右左と順を踏んだ。ところが今は右足を踏んだら左足は右足を載せてある踏み台に置いてしまうのだ。ほかのところはまずまずである。1時間20分。
     帰りはバスで保土ヶ谷駅まで行って、スーパーによってバスで帰った。1時間半。
   7日(金)朝  -  昼1・0キロ計1・0キロ
     今朝は排出管の清掃があったので休み。
     昼は1号棟前を歩く。調子が出ない。それなりだ。
   8日(土)朝0・3キロ昼  -  計0・3キロ
     ゴミをもってゴミ置き場に行く。今日は重たい。何か入れたかな。まあ、仕様がないと思いながら、ゴミ置き場の端っこに腕をつき、足を回転させて置き場について、ゴミを捨てる。それから1棟前を歩く。何だか降ってるのだか止んでるのだか分からない。2週目に入ったらぽつりと雨だ。今日は止めよう。
     昼はちょっぴり雨が降っていたからもうおしまいだ。ところが2時半ごろ日が差してきた。空も快晴になってきた。おかしな天気だ。
  9日(日)朝  -  昼  -  
     日が照っていたが、風が強かった。そのうち曇って雨が降り出した。今日は一日雨だろう。2時には止むか。

2016-10-02

武田泰淳『富士』(中公文庫)


 まず驚いたことには、この小説は映画にはならないなということであった。一人の人間の発する言葉が大きすぎるのだ。例えば精神病患者一条実見は、作者が2度ほど2行程度の相槌を挟んでも、6ページはしゃべり続ける。作者が「いつまでも長く、一条のおしゃべりを聴きとり」といっていることからも明らかだ。
 またドストエフスキーが出てくると、私はそこを手放しで読んでしまうのだが、精神病院院長はカラマーゾフの兄弟からゾシマ長老を引用する。「あそこにはゾシマ長老とその弟子アリョーシャ青年が出てくるね。あの師と弟子は二人とも、宗教的なやさしさにつつまれているね。しかも二人の関係は、何の疑いも迷いもなく、浄く堅固な信念によって結びつけられている」
 続けて、長老ほど人間精神の微妙な奥底まで入りこんでいた男が、どうしてあのやさしさを保つことができたのだろうか。ゾシマ長老もアリョーシャ青年も、たえず悪魔の呼びごえを耳にしながら、彼らの神にちかづいていたにちがいないんだ。と書く。
 病院内でやさしさをもって接する院長は、ドストエフスキーの作り出したやさしさを持つことはできないが、別種のものだと信じていたかったようだ。それは何かは別として。終わりころ、南方の病院に赴任して、死んでしまう。
 『富士』は太平洋戦争が終わるころ、富士山麓で精神病院を運営する院長以下の職員と患者たちの物語である。患者たちといったのは5,6人がいわば主人公である。私という作者も狂言回しに過ぎない。
631ページの長編であるが、本の紹介は埴谷雄高にまかせると、
精神と性のグロテスクで真剣な〈セイニク・精神と肉体〉の刻印を帯びた存在の諸相が精神病院のかたちをかりた現世の曼陀羅として悠容たる富士に見おろされている。
 最後にこの本の唯一の欠点は、精神病院のストライキだ。事務長排斥のため黒い文字に赤い丸をつけた檄文が目立つ。最終2ページだ。何のために書いたのか。私には分からない。

歩行距離
9月26日(月)朝1・3キロ昼1・0キロ計2・3キロ
      よく晴れた朝だった。交差点まで行った。最初は5・30分だったが、そのうち遅れて交差点まで21分30秒。20分、19分と上げよう。信号を渡ったベンチにいたら、坂下を下ってみようとなった。一度は行きたい道だ。100メートルぐらい降りたら、右横へ入る小道が見えた。うん、ちょっと無理かな。道と小道の段差が急だ。それが一段過ぎたら手すりがついているのだが。
      帰り道、二股になっているところで階段が上がっている。さっきの道がこの階段に繋がっている。この階段の出口も私にとっては一苦労だ。小道の入口、出口は無理だった。
      午後は団地の4つの棟の周りをえっちら歩いた。タイムは昨日とだいたい同じだ。
  28日(火)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
      今日は10時から友達と三浦へ行った。城ケ島の先端で海を眺めた。駐車場を降りて先端まで500メートルか。一階と言おうか、海に近いところで昼飯を食べた。まぐろ丼というものだった。上手かった。
  29日(水)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
      かなり風が強かったがバスで郵便局まで行った。交差点まで行って保土ヶ谷行きのバスに乗り、小学校で降りて50メートルもないところに郵便局があった。市の敬老パスを受け取りに行った。明日はどういう天気か分からないので、風の日でも今日しかなかった。帰りは足が痛い(ようだ)。これは初めての経験だ。右足が踏ん張れない。右足を意識的に前へ出そうとしているからか。明日か明後日様子を見よう。
  30日(木)
10月1日(金)
   2日(土)
   3日(日)朝1・8キロ昼  -  計1・8キロ
      2日は日曜日なのに3日が日曜日になっている。どこかおかしくなっている。

2016-09-25

部屋の間取り


 食事はダイニングでするのだが、その時二つの部屋とベランダを眺める。二つの部屋とはどんな部屋か。まったく同じである。ダイニングから眺めてみよう。まず90センチの2倍、180センチが入り口としてどーんとあって、ダイニングとこれから入る2部屋を分けている。2部屋は中央に襖があって、その左右は同じだ。6畳二間とはまったく同一の部屋だった。
 ダイニングを出て部屋に入ってみる。今の入口の左右両方に1畳の押入れがあり、その上の天袋もまったく同じだ。2部屋の襖は2・7メートルまでで、その奥0・9メートルは壁である。1部屋ずつ2部屋とは使いでがある。
左右同じだからベランダに通じる窓も1・8メートル×1・8メートルと同様である。窓を開けてみる。1・2,3メートルの空間があって、それは白いフェンスで区切られている。その先は雑草畑だ。ベランダはコンクリートである。白いフェンスには物干し用の金具が2つついていて、その横の穴に洗濯の棒を入れるというわけだ。
 ここまではダイニングから二部屋を眺めたが、視線をもっと手前に置くと二部屋の入口の手前に、左右均等に1メートルの押入れの柵を囲っている外壁が見える。ここで回れ右してダイニングを眺める。もう左右均等ではない。
 左端に台所用の窓があって、その前に流し、ガス台がある。その先は壁だ。振り向くと1・2メートルのところに、壁から台所の流し半分といった格好で1・5メートルの台所壁が立っている。台所としてはさわやかな空間というもので、作業がしやすい。
 右端に高さが1・8メートル、幅が1・8メートル、奥行50センチの棚がある。何を置いても構わない。外装の色はダイニングと同じだ。その横はまた壁である。
 台所壁1・5メートルの向こうはダイニングで、丸いテーブルが置いてある。その先が玄関間でその先がドアーになっている。ガス台の先の壁はダイニングでは扉になっており、扉を開けると洗面所と洗濯機置き場だ。左側つまりガス台の後ろは風呂で、振り返って洗面所の先はトイレである。
 2dkといってもダイニングとしては広い方だろう。

歩行距離
9月19日(月)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
     曇りだ。いつ降るか分からない。1棟前を歩いた。ずっと6分から6分20秒。5分になるのはあと少しか。
     午後は降ったり止んだり、やめにしよう。
  20日(火)朝  -  昼  -  
     もう止んだかと思っていたら、細かい雨が降っていた。郵便受けまで行って戻った。昼も雨だ。
  21日(水)朝1・0キロ昼  -  計1・0キロ
     台風一過の晴れ渡った空、というわけにはいかなかった。どんよりとした曇り空だ。1棟前を歩く。前半は6分前後。いつもこのくらいだといい。後半は7分、8分もある。歩く姿勢はそんなに悪くないと思うのだが、足が上がらない感じがする。600メートル、700メートルと上げていけたらいい。
  22日(木)朝  -  昼  -  
     ずっと雨。
  23日(金)朝Ⅰ・0キロ昼  -  計1・0キロ
     雨はかすかに降っているか、いや降っていない。1棟前を歩いた。雨が降るか分からないので私の部屋から棟中央の入口まで行き、そこからゴミ置き場まで行った。5往復だ。昨日の朝から足が言うことを効かず、一日あはぁ言って過ごした。今朝起きてどうだろうか。相変わらずだ。歩いてみたらどうなるか。タイムを気にしない。まあ、こんなものか。後半800メートルぐらいから足がおかしくなったが、何とかたどり着いた。これから先はどうなるのか、歩いてみれば分かるだろう。
  24日(土)朝1・3キロ昼  -  計1・3キロ
     曇っていたがそのうち薄日が差してきた。横浜行きのバスに乗った。あっ前のに乗れると思っていたが、あと5メートルのところでバスは行ってしまった。野球場が何やらいっぱいでこのバスも5分以上遅れていたのだ。15分ぐらいしてバスに乗ったが、これも降りる人で大混雑だ。野球のおかげで、発車したバスはゆるりとしていた。
     最初いつものスーパーへ向かっていたが、バスが遅れ気味なので近いスーパーに変更した。帰りのバスはもっとひどかった。やっと乗ったが、次のバス停で乗る人たちがいて、中まで押され、座席の吊革みたいのにつかまって我慢した。バスが右に左に揺れるたび、腹を座席にくっつけていた。みんなはやっと野球場で降りた。私の降りるバス停は次だった。
     普段バスではどうぞ座ってと席を譲ってくれるのだが、満員のバスではそれもなしだ。
  25日(日)朝1・0キロ昼1・0キロ計2・0キロ
     曇りか、空模様は大丈夫かなと思っていたら帰るころには日が出てきた。1棟前1・0キロ。もうタイムはいいだろうと思っていた。500メートルでタイムを見たら6分を切っていた。分からないものだ。800メートル以降は8分台と標準だ。
     午後は4つの棟を回った。坂があるし歩きにくい。500メートルを40分かかった。明日からは35分、30分と目標をつけよう。