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2007-08-01

身の丈のひとー小田実追悼               

 小田実を追悼するために『状況から』(岩波書店、1974)を読みなおしたよ。この本は大江健三郎の『状況へ』と対をなして刊行されたんだ。小田実42才、大江39才、私は29才だった。
『世界』に併載されていたんだけど、本のタイトル『から』『へ』をみると、小田実が運動の場から報告して大江が批評し返すといった印象を受けるよね。
 でも小田実にはそんな気取りはまるでなくて、のっけから「状況に押されっ放しだ」と書く。ベ平連を始めて8年目だ。

8年で何を感じたかと、『朝日ジャーナル』の対談で訊かれて、「いかに自分たちの側が無力かということだ」と答えたら、対談相手の本多勝一が「ただ一つの官庁の中の一課長の力は莫大だ。それに引き換え小田実は何と無力なことか」といってのけたというんだね。
 
 まさしく「一課長」「一課員」「一小使」の“有力”にうんざりするほど付き合ってきたと、小田は感慨めく。しかし、彼らは単に官僚機構のピラミッドの一部だけど、彼ら自身もまた、「一小使」であろうと、ピラミッドだという。無数のピラミッドがピラミッド総体をつくりあげている。

 どうしてこう考えることが大事なのかといえば、責任の問題だね。ピラミッド型組織は責任が上にも下にも拡散する。だから、一つ一つの途中を吟味する。つまり、途中で責任の歯止めをかけるというわけだ。
 そのとき、小田は日本のベトナム参戦について、その責任を考えている。
 
 本書を読むと小田は人生の節目に差し掛かって、同世代、同年代の人々に目が向くんだ。
 政府や企業のえらいさんになりかかっている「一課長」たち。“どうせあの人たちはと、心の底で諦めていた。でもそう感じたということは、彼らに対して期することがあったということだ。だからこそ彼らのベトナム参戦に逆らえない「無力」がこたえた”

 私は今だからこのような読み方ができると思う。
 こんなことだって書いている。ある地方都市で一役人と会ったときのことだ。彼は昔は僕もやったもんですよという。今は何をおやりですかと小田が訊くと、彼は何を勘違いしたか、税務署長をしていますというんだね。
 これには解説が必要かな。彼がやったというのは安保闘争か何かだろう。そこまでは二人の共通認識だ。そこで小田が訊いたのは今はどんな運動をというわけなんだよ。

 ところで、小田実の葬儀が土曜日青山葬儀所で行われるという。小田は「礼儀は好きだが、作法は嫌いだ」といっている。葬儀は作法じゃないだろうか。通夜は感情の問題だ。死んだ人と一夜をともにしたければそれでいい。私は作法や形式は嫌いだから行かない。

 小田は入院してからの闘病生活の間、自分の弔われ方について考えなかったのだろうか。4ヶ月ほどはあった。そういうことには頓着しない方なのかもしれないなあ。ベッドの上でも、もっと生産的なことを考えていたのかもね。
 私自身は弔われたくないと思っている。

 私は学生の頃から花田清輝を読んでいて、花田の訃報を聞いたときどんな葬式をするのだろうかと興味を持っていた。ちょうど本書の刊行と同じ1974年だった。
 小さな庭に面した廊下とその奥の部屋をぶち抜いて、祭壇がこしらえてあった。花と真ん中に遺影があるだけだ。坊主も読経の声もなかった。
 焼香がすんで、道路でちょっとした挨拶の会があって、焼き場へ向かう時、何と棺はライトバンにのせられた。霊柩車なんかどこにもない。私はそのとき花田を全面的に信用した。

 小田の葬儀は、そのあとに15分ばかりのデモが予定されているというんだね。これもまた作法じゃないだろうか。しかし、デモを仕組む人たちは小田の考えを十分知っているはずだ。恐らくただのデモはしないと思うよ。
 
 小田は「ケイダンレンにデモをしよう」の中で、“何がベトナム復興だ、ケイダンレン、おまえにそんなことがいえるか”、“ひどい暮らしだ、ケイダンレン、おまえのおかげだ”というプラカードを掲げると書いている。
 今でも通用するね。

 そこで、参会者にはこんなプラカードを掲げたらどうかと提案したいんだ。行かないのに余計なお世話だ、は承知だよ。
“対テロ戦争を名目に、人権侵害をやめろよ、米と同盟国とかの日本”
“人権侵害の後押しをやめろよ、ケイダンレン”
 小田は病をおして民衆法廷に出向いた。フィリピンは相当ひどい状況にあるみたいだ。小田のHPにある「判決文」、長いけど読まない人には参列の資格はないんじゃないか。http://www.odamakoto.com/jp/(市民の皆さん方へ)
 
 小田はいつも下から上を見る。でも、上を見過ぎない。遠くて見えないじゃないか。だから、身の丈までしか見ない。すると、上の人が等身大と化すんだね。すごい発見だ。
 見たらどうするんだ。何かをする。こんな風にはいればいい。

「行動というと、もうそれだけで人間離れしたサイズのことがらに取られがちだ。行為と控えめにいうと、自分のからだのサイズに密着している」
 単なる言葉の問題じゃないんだね。ここが大事だ。「自分のようなタダの人間には、とてもとてもというような逃げがきかない」
 “逃げはきかない”“居直りはきかない”がいくつになっても背中を押してくる。(05:45)

コメント

礼儀と作法

物心つく前には、冠婚葬祭に嫌悪を感じていたと思う。物心つく前なのだから、当然理由はなかった。今では、理由を述べよと言われてとまどうこともないけれど、果たして自分の考えなのかどうか…。
そんな中で今回のブログを読んで思ったこと。「礼儀と作法」の違いがいまいち?いや、まったく分からない。葬儀もまた、催す方の気持ち次第で礼儀にも作法にもなり得るのではないだろうか?

「最小限の礼儀」

という章を設けて小田実は礼儀と作法にこだわっています。”慇懃無礼”という言葉が端的な例ですね。作法にはかなっているが、心がこもっていない、相手を馬鹿にしている、だから無礼というわけです。
「礼儀の根本は相手の身になって考えること」といっています。小田実は一般的な礼儀作法について、それがなっていないと怒っていますが、もちろん目の先は強いものと弱いものの関係に向けられます。
”海外援助”を考えると、それを自分たちの商売にするな、相手の自主性を尊重しろということになりますね。
 私が葬儀やデモを作法だと考えるのは、小田の意に反するのではないかと思うからです。小田の考えを私がそのように理解しているということです。

私は人を見るとき、その時、その時の見え方で自分の状態が分かる。相手がどういう人かを決めているのは常にこちら側で、その人の行為を見れば見るほど、自分の位置が確認できる。
~したい、と私が誰かに言う。私が憧れを持つ人たちは口を揃えて「じゃあ、やればいいだけ」だと言う。簡単なことだと。したいことに向けて行動する簡単な行為をしないが為に、自分や周りに誤解を与える。したいことをしない、自分自身に逆らう、すると自分をとりまく全てが狂う。

目線

独特な感想だね。”身の丈目線”でやってみたらどうか。

少しずつ読んでます

 REKさんのブログを少しずつ読んでます。とても面白いです。学生時代それほど小田実さんと出会わなかった(遠くからちょこっとご本人を何かの集会でみかけたことはあります)ので、これからぼちぼち出会おうと思ってます。「状況から」を読んでます。

 日本の現状、20年も30年も前からほとんど変わってませんね。いや、だんだんひどくなってるようです。

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