日本語とハングルの広告文体比べ
[The REK Friday Blog]
朝日新聞の朝刊にこんな全面広告が載った。縦に4分割されているが、アップしなくてもいいよ。




NSKは私が学校を出て最初に勤めた会社だ。いや、そんなことはどうでもいい。中央部に書かれたハングルと下段に書かれた日本語の広告文を比べて文化の違いを考えたい。
朝日新聞の朝刊にこんな全面広告が載った。縦に4分割されているが、アップしなくてもいいよ。




NSKは私が学校を出て最初に勤めた会社だ。いや、そんなことはどうでもいい。中央部に書かれたハングルと下段に書かれた日本語の広告文を比べて文化の違いを考えたい。


(横に2分割されている)
これを直訳する。全面広告のタイトルは「本当にいい季節ですね」だ。
10月末、もみじが色とりどりに染まった美しい季節です。韓国では秋は“読書の季節”です。ソウルの、ある公園の脇にあるこの図書館には平日でも多くの人々が訪れてきました。図書館の自習室では今日も学生をはじめ一般市民が読書をしたり、自分の用向きに熱中しています。中にはコンピューターの前に座ってレポートやイーメール、インターネットをする人の姿も多く目に入ります。その一つのコンピューターの中にはベアリングがみんなの邪魔にならないよう、静かに静かに回転しています。どうかお好きなことに心ゆくまで没頭してください。結実の秋になるようお祈りします。
下段の日本語は次のようになっている。読みづらいから下に書き直した。


(横に2分割されている)
「いい季節ですね」というタイトルの韓国・リポートを日本語でお届けします。
10月末、紅葉が美しいこの季節、韓国は「読書の秋」になります。ソウル市内の公園脇にあるこの図書館には、平日にもかかわらず多くの人が。図書館の自習室では今日も、学生をはじめいろいろな世代の人々が、読書はもちろん思い思いのことに集中しています。なかでも多く見かけるのは、パソコンに向かいリポートやメール、ネットをする人の姿。それぞれのパソコンの中では、ベアリングがみなさんの邪魔にならないよう、静かに静かに回転しています。どうぞ、好きなことに好きなだけ没頭してください。いい実りの秋になりますように。
どうだろう。(突如ベアリングの話題になるのはNSKがベアリング会社だからだ。昔は日本精工といった)。訳語の選択を今は問わない。第一印象として、日本語は感覚に訴えているなあという思いが強い。2行目「多くの人が。」述語がないね。4行目「ネットをする人の姿。」倒置の体言止めだ。
冒頭の「美しい季節」に掛かる「色とりどりに染まった」が日本語ではカットされている。ここも体言止め。「紅葉が色鮮やかに美しいこの季節」ではくどいんだね。もみじといったら色鮮やかなものだという思い込みを含んでいる。あるいは、色鮮やかなら美しいのだから美しいをカットして「紅葉が色鮮やかなこの季節」でもよさそうだ。ただ、訳者はハングルの美しいを表す“アルmダpタ”にこだわったのだろう。美しいという単語は放せない。
さらに、この「紅葉が美しいこの季節」という体言止めだが、ハングル文の「季節です」は今その季節になっているのだからと、「この季節」に置き換えた。このあたり、手が込んでいる。日本語文が洗練されていて、ハングル文はダサいと感じるかい。そう感じたら、それは問題だ。
“洗練されている”という感覚は“感性に訴えるあいまいさ”のことだ。日本語は曖昧に、曖昧にと、なってゆく。ツルんだ仲間内の言葉がダサくないとされるんじゃないか。
この傾向は何も若い人に限ったことではない。日本語と日本人はますます内向きになってゆく。仲間の外に発信する言葉と文体を使いたいものだね。曖昧さは枕草子から続く日本語の美しさだといってはいけない。時代は開かれている。
韓国に関しては、ハングル文の3行目、「学生をはじめ一般市民」とあるが、いかにも高学歴社会だなという印象だ。学歴詐称が大統領選挙より大きな話題だと朝日新聞にも載っていた。韓国の新聞の1面を飾る回数がダントツだというんだね。
ここもさすがに日本語文では「いろいろな世代の人々」に代えてある。苦心は見えるがどうせなら思い切って「学生をはじめ大人や子供」としてもよかった。
異文化交流としてこの広告シリーズはいいんじゃないか。
コメント
異文化
最近、「日本人とユダヤ人」という本を読みました。
著者はユダヤ人なのだけれど、日本人の特色や本質を的確に挙げていました。読めば読む程、自分が日本人以外の何者でもないと実感していきました。当たり前だと思い込んでいる無知な自分は無恥だと思いました。
相対化
この本の著者は実は日本人なのではないかといわれたこともあったんだね。それほど”的確に”ということだろう。日本や日本人は絶対ではないと、相対化することが大切じゃないかな。
日本人であることを自覚させられたと同時に、日本人であることをただ、嘆いた。
私は、「誇りが持てない日本人と誇り高きユダヤ人」と解釈した。
日本人は自覚無しに、人間を信じる日本教徒だという考え方が印象に残った。宗教とは無縁で生きてきたつもりでいた。その分、その言葉に因って宗教に関心を抱かずにはいられなくなった。
その後、ビートたけしの「私は世界で嫌われる」や
朝鮮人作家の「名を奪われて」を読んで、日本人を前提とした自分が勢いよく姿を現した。
中沢新一は「生のことを考えるのが哲学、死のことを考えるのが宗教」といっている。そう考えると、宗教に対する”ひけ目”を感じなくて済むね。
死のことを考えるのが宗教だとしたら、宗教はいかに死ぬかってことなのだろうか。宗教も哲学も同じようなところにあるように思う。宗教は全ての「人」と関わっているとは思いづらいけれど、宗教の存在がある限り誰でも何かを信仰せざるを得ないのかどうか。一人一人の人生の中で、信仰をしたりしなかったりが行われるだけなのかどうか。宗教について軽視できなくなってきた。産まれたときから既に国籍があって生きているように、宗教があって存在しているとしたら宗教を選択することしかできないのだろうか。わたしにとっての宗教が憲法に値するとは、やはり思えない。
コメントの続きはFriday Blogに書きます。
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