屠蘇ブログ
[The REK Friday Blog]
あけましておめでとうございます。
さて、今年は韓国へ行く。リュックを背負いランニングシューズだけは中に収めて、若い人のようにひょいと旅立ちたい。“見る”ことのほかに、先の先には新たな目標が生まれた。2回、3回の訪問の足慣らしだ。
といっても、話す・聞く・読むも満足にできない。とっさの受け答えがまるでダメだ。反応が遅いから人の10倍はかかる。半年でせめて5倍くらいにはしたいなあ。
あけましておめでとうございます。
さて、今年は韓国へ行く。リュックを背負いランニングシューズだけは中に収めて、若い人のようにひょいと旅立ちたい。“見る”ことのほかに、先の先には新たな目標が生まれた。2回、3回の訪問の足慣らしだ。
といっても、話す・聞く・読むも満足にできない。とっさの受け答えがまるでダメだ。反応が遅いから人の10倍はかかる。半年でせめて5倍くらいにはしたいなあ。
例の『朝鮮日報』の記事にこんなのがあった。
俗世を離れた仏者は世間の名誉がむしろ負担か。
今年チョンチヨン(鄭芝鎔)文学賞受賞者に選ばれて、「恥ずかしくて私のからだに毛が生え、頭に角が生えた獣の気分」といいながら顔を赤らめたチョ・オヒョン和尚(75)の2007年チョンチヨン文学賞受賞記念詩集『遥かなる聖者』(詩学)が出版された。
出版の所感を一言お願いすると、和尚は「私に所感などは尋ねないで」と手を広げて打った。そして受賞詩集を出した喜びを、巻頭に置いた詩で代わりとした。
坊主はついに仏も悟りさえも
おっぽり出さなければならないが故に
つまんでもつまみ出しても網は空になってしまって
無数の衆生どもが溺れ死んだ蔵経の海
帆降ろしたその舳先に
寝ている船頭よ
(『詩人の言葉』抜粋)
詩人は瞬間で永遠を読み取る悟りの世界を、切に願う求道者の内面風景を、文学的に形象化する。
一日という今日
今日というこの一日に
もうこれ以上見ることがないと
知っているかとくたばり果てるその日暮らしの群れ
千年を生きるといっても
聖者は
遥かなその日暮らしの群れ
(チョンチヨン文学賞受賞作『遥かなる聖者』抜粋)(以上、訳は私。直訳につき推敲の必要あり)
「もうこれ以上見ることがない」。どこかで聞いたことがあるね。“見るべきものは見つ”、平知盛だったか。木下順二が何か書いていたかな。堀田善衛も言及していたと思う。屠蘇気分が抜けたら調べてみよう。
チョ・オヒョンは知盛の言葉を知っているのだろうか。
中世の戦の世の中と、グローバリズムに席捲されている韓国社会で、二人は同じような言葉を吐く。上辺を繕う言葉として誰でも口にする垢にまみれたセリフになってしまっているが、詩の言葉として選んだチョ・オヒョンの心中を探るということだね。
その前にチョ・オヒョンの詩集を読んでみないことには始まらない。買い求めるだけならソウルへ行けばできる。果たして、“ただの人”か、それとも“深い人”か、半年かけて読んでみたらわかることだ。
年令からいって、植民地時代と光復はまだ子供だが、いつ僧籍に入り、朝鮮戦争と軍事政権下をどのように暮らしてきたのだろう。
はたまた「その日暮らしの聖者」とは寺をもたない僧のことか、あるいは生産手段をもたない僧侶に対する自嘲めいた言葉なのだろうか。
そんなことなどを訊いてみたいのだよ。メモを見ながら尋ねることはできる。ただ、返答を聞き取ることはまるで叶わぬ。いつかは可能になるかと、自分自身に楽しみはあるんだが。
俗世を離れた仏者は世間の名誉がむしろ負担か。
今年チョンチヨン(鄭芝鎔)文学賞受賞者に選ばれて、「恥ずかしくて私のからだに毛が生え、頭に角が生えた獣の気分」といいながら顔を赤らめたチョ・オヒョン和尚(75)の2007年チョンチヨン文学賞受賞記念詩集『遥かなる聖者』(詩学)が出版された。
出版の所感を一言お願いすると、和尚は「私に所感などは尋ねないで」と手を広げて打った。そして受賞詩集を出した喜びを、巻頭に置いた詩で代わりとした。
坊主はついに仏も悟りさえも
おっぽり出さなければならないが故に
つまんでもつまみ出しても網は空になってしまって
無数の衆生どもが溺れ死んだ蔵経の海
帆降ろしたその舳先に
寝ている船頭よ
(『詩人の言葉』抜粋)
詩人は瞬間で永遠を読み取る悟りの世界を、切に願う求道者の内面風景を、文学的に形象化する。
一日という今日
今日というこの一日に
もうこれ以上見ることがないと
知っているかとくたばり果てるその日暮らしの群れ
千年を生きるといっても
聖者は
遥かなその日暮らしの群れ
(チョンチヨン文学賞受賞作『遥かなる聖者』抜粋)(以上、訳は私。直訳につき推敲の必要あり)
「もうこれ以上見ることがない」。どこかで聞いたことがあるね。“見るべきものは見つ”、平知盛だったか。木下順二が何か書いていたかな。堀田善衛も言及していたと思う。屠蘇気分が抜けたら調べてみよう。
チョ・オヒョンは知盛の言葉を知っているのだろうか。
中世の戦の世の中と、グローバリズムに席捲されている韓国社会で、二人は同じような言葉を吐く。上辺を繕う言葉として誰でも口にする垢にまみれたセリフになってしまっているが、詩の言葉として選んだチョ・オヒョンの心中を探るということだね。
その前にチョ・オヒョンの詩集を読んでみないことには始まらない。買い求めるだけならソウルへ行けばできる。果たして、“ただの人”か、それとも“深い人”か、半年かけて読んでみたらわかることだ。
年令からいって、植民地時代と光復はまだ子供だが、いつ僧籍に入り、朝鮮戦争と軍事政権下をどのように暮らしてきたのだろう。
はたまた「その日暮らしの聖者」とは寺をもたない僧のことか、あるいは生産手段をもたない僧侶に対する自嘲めいた言葉なのだろうか。
そんなことなどを訊いてみたいのだよ。メモを見ながら尋ねることはできる。ただ、返答を聞き取ることはまるで叶わぬ。いつかは可能になるかと、自分自身に楽しみはあるんだが。
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