かつてある時ある場所で(上)
[The REK Friday Blog]
日本の敗戦後、即ち朝鮮の光復後すぐ、済州島で大きな騒乱が起きた。 ETV特集 悲劇の島
私は見逃した。いつか再放送されるだろう。
二つの新聞記事も参考にしてほしい。朝鮮日報 朝日新聞
日本の敗戦後、即ち朝鮮の光復後すぐ、済州島で大きな騒乱が起きた。 ETV特集 悲劇の島
私は見逃した。いつか再放送されるだろう。
二つの新聞記事も参考にしてほしい。朝鮮日報 朝日新聞
さて、この事件について在日コリアンが大阪で“証言の集い”をもった。それを角南(すなみ)圭祐という若いフリーランスジャーナリストが取材して、彼の「半島浪人レポ」というブログに掲載した。
この記事はハングルで書かれている。そこで私は訳してみた。長いから上下に分ける。
事件は済州島で起こったが、世界のある時、どこかで、起こりえたかもしれない。それが訳を掲載する理由だ。
「済州4.3事件60周年」大阪の証言 “虐殺の島から生き残った”
・武装隊総司令官イドックの姪など大阪の済州出身者、初めて4.3事件証言に立つ
「もう5回目だ。今度も行くことができなければ、いつ死ぬかもしれない」
10月だというのに風が冷たかった。夜8時釜山港。大きな貨物船が何隻かまるで幽霊かのように揺らいでいた。今度は無事にあの海を渡ることができるだろうか。今までは行こうとしても、4回とも風雨が強くて戻らざるをえなかった。
20分くらい待っていると、小さな漁船から人の気配がした。船室の扉がキイキイと開いた。船長が船室で眠っていたようだ。少し経って船に乗ろうとする人が、一人二人と姿を現した。
「まさかあの中に警官がいるということはあるだろうか」
人々を注意して眺めながら、イさんも荷物をまとめた。
「今度はきっと海を越えよう。そして生き残ろう」
(写真:3月23日大阪生野区で、済州島4.3抗争当時総司令官だったイドックの姪、イボクスさん(中央)が涙を流しながら60年前のことを話した。
・同胞22人、無一物になって命懸けの密航
出航しても心配だった。寄る辺ない身の上だ。
「日本に着いたら誰とどのように暮らさなければいけないのか」
50万ウォンを船長の手に握らせて船室に場所を取った。今まで合わせると5回分、ある土地ない土地売り払った250万ウォンをそっくり密航に使ったことになる。
「むしろ北へ行きたかった。思想も何も分からないけど、それでも北にはアカ、いやアカの姪だし、銃殺はしないだろう」
15時間くらいして日本の海域に入った。しかし、日が明るいうちに港へ入っていくわけにはいかない。そこらをぐるぐる回って過ごした。漁船はイさんを含めて20人くらいの密告者を乗せていた。
日が暮れかかった夕方の6時ころ港に向かい、真夜中漁船は九州の唐津港に着いた。
しかし、港には密航を取り締まる日本の警察が立っていた。
「どこから来たか」「登録証はあるか」と警官がいった。
イさんは何もいわずに頭を下げたまま、警官の手に引っ張られた。
去る3月23日午後3時、大阪生野区聖公会教会1階講堂に用意された証言会の席。イボクスさん(72)は1956年10月韓国を発った日の夜について涙ながらに話した。
熱心にメモを取る学生、涙を拭いつつ写真を撮る記者、そして「私もそうだった」という表情で頷く70代の男性など、会場に詰め掛けた60余名は彼女の話しに息を呑んだ。
済州4.3抗争(1948~1949)を率いた武装隊総司令官イドック、イボクスさんは彼の姪だ。家族は全員銃殺された。済州島を離れて日本に密航し、大村収容所に収監、その後済州4.3抗争を取材していた日本人記者の援助で釈放される。暮らしは厳しかった。金槌で手を打ち落とし・・・。
語り始めて1分も経たずにこみ上げる表情、そこに涙がこぼれる。証言の2時間余り、彼女は涙を流し続け、手にしたハンカチはぐしょぐしょになっていた。
イさんは日本に暮らして52年になるが、このように人前で口を開いたのは初めてだ。オカンヒョン在日遺族会事務局長が10年説得を続けてきた。彼女はその間誰かが捕まえに来ないと怯え、“済州島出身”ということも、イドックという叔父のことも、できる限り口にしなかった。娘は3人とも日本の学校に上げた。子供たちが政治や思想に少しでも関わることを嫌った。それは「考えただけでも髪の毛がそば立つ」ことだったのだ。
・寝床のよもやま話に4.3を避ける夫婦
この60年、沈黙のうちに暮らしてきたのはイさんだけではない。大阪の済州島出身在日同胞はほとんどそうだ。生野区には1948年以降、互いに殺し殺される“虐殺の島”済州から追われるように流れ込んできた3万人余りの在日同胞が住んでいる(2007.12、大阪市調べ)。
もともと大阪には、1933年に済州・大阪間の定期航路が就航して、肌身一つで渡ってきた多くの人々が定着した。その後4.3抗争を前後に“血腥さ”を避けた人々が密航船に身を乗せて大阪にやって来る。
コラニさん、78才。1948年、イドック総司令官に勧誘されて武装隊生活に入った。18才だった。任務は髪の中に秘密文書を隠して運ぶ伝令。警察の取締りが厳しくなると、コさんの父親は娘の危険を感じ取り、密航船に乗せて日本へ送った。
コさんは済州島のある浜から舟に乗った。同行者は10人ほどだった。兵庫県西宮へ向かう。
密航船がどこから出て、どこへ行くかは誰も知らされていなかった。昼間は名もない小島の陰に隠れ、夜になると移動した。3日かかって西宮に着いた。大阪と神戸の中間にある。
コさんは同じような気持を抱いている人がたくさん来て住んでいるという生野区へ行った。そこで彼女を待っていたのは悲報だった。
「私が密航船に乗った後、父はすぐに銃殺されたんだよ」
コさんはそれ以降口をつぐんだ。姓がコだから、済州島から来たんだろうとみんなはいったが、30年余りのあいだ故郷については何もいわずに暮らしてきた。
コさんの夫も済州島が故郷だ。4.3の頃やはり密航船に乗って日本に渡った。二人は一晩中寝床にいても4.3と関係のある話はしない。10年前だったか、こんなことがあった。ある研究者がコさんを訪ねて4.3関連のインタビューを頼んだのだ。すると夫がいきなり跳んできてその研究者を追い出した。そして、コさんに向かって声を張り上げた。「おまえも二度死ね」
イボクスさんは23日の証言会には夫に内緒で出席した。長女のところに行ってくるといって時間をつくったのだった。「うちの主人は私と考えが違って、こっちは全然理解できなくて」
そういうご主人のために、証言会の後もコさんとのインタビューはなかなか捗らない。イさんは30年前から生野区で「エテン」という喫茶店を経営している。主に済州島出身在日同胞がコーヒーとトーストをとる。
証言会の翌日、取材チームが「エテン」を訪れた。イさんは取材陣を見るなり、手で口を塞いだ。「しっ、静かにして」と眼で合図した。
片隅のテーブルに座ってイさんの夫が新聞を読んでいたのだ。
取材陣は夫を眺めながらコーヒーとトーストを取らざるをえない。ご主人はずっと店の入り口を見つめていたが、見知らぬ取材陣の顔を横目で探っていた。無言の恐い目つきでもあった。(つづく)
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