かつてある時ある場所で(下)
・分断、国家保安法・・・まだ話せない
生野区で食堂を経営している済州島出身在日1世キムチョンセンさん(78才、仮名)は「4.3については何も話したくない」といって取材チームを追い払う。「まだ分断状態だ。今も国家保安法がある。ここの人たちは4.3について話すのは好まない」
キムさんは1947年、17才のとき警察に引っ張られ済州警察署で1ヶ月留置生活を送った。だから、彼は昔の経歴が表に出ないだろうかと気が気でなかった。
「インタビューを何回か受けたが、そんな話は絶対しなかった。今後も絶対するものか」
キムさんはこのように声を張り上げる。
日本で4.3関係の記念行事を推進し、4.3が在日共同体に与えた影響を研究してきたムンキョンス立命館大教授(国際関係学)は次のように語る。
「4.3を直接経験してきた人々は“4.3コンプレックス”と呼んでもいいような、とても大きい挫折感と心理的屈折を抱いている」
4.3抗争を避けて日本に来た人々は誰もあくせくして金を稼いだ。
「希望がなかったんだよ。金儲けというよりは他に慰めがなかったんだ」
日本生まれのホンヨビョウさん(78)は生野区で食堂を開き、店を三つ持つ。父は大阪城近くの森宮軍需工場で石を運んだ。当時中学生だったホンさんも共に石を運ぶ。学校などは夢にも出てこなかった。父は毎日毎日稼いだ金をすべて遊びと酒に費やした。母は工事場近くで米糠でマッコルリを造って売った。畳の部屋は三間しかなく、両親、兄弟二人の5人家族が互いに身を寄せ合って冬をしのいだ。
そうこうして解放を迎えるとすぐに、ホンさん一家は父を除いて済州島へ渡った。しかし、済州島の暮らしは大阪よりひどかった。住み込みの畑仕事をして食いつないだ。“半作農”、つまり収穫の半分は主人が取り、残りを小作農が手にしたのだ。
何年か後、島が騒々しくなってホンさんは友人たちの誘いに乗ってデモに参加した。
当時、若い男が“山の民”と少しでも付き合いをもつと、軍人と警察が銃口を向ける時代だった。4.3のとき、母が「おまえは生きろ」といって、ない金をかき集めホンさんを密航船に乗せたのだった。
日本に戻ることができて、ホンさんは父がなぜ酒と遊びに執着したのか分かるような気がするという。
それでもホンさんは酒に溺れることなく、飲む時間を削って手当たり次第働いた。いま大阪生野区仲買人会顧問を務める。
「在日同胞に金を稼ぐ道は少ない。主として食堂か不動産だ。“悪徳”だといわれながらも、歯を食いしばって金を稼ぐ人が多い」と彼はいった。
(写真:大阪布施地区、在日ハルモニのための介護施設“愛の部屋”。故郷はプサンだというある
ハルモニは「ここで4.3の話を聞いた。済州ハルモニと知り合い、4.3のアカイメージが消えた」といった。)
・50周年行事を大阪領事館が妨害
イドックの甥カンシルさんも次のようにいう。
「信じられるのは金だけだから、稼ぐだけ稼いで使うことはしなかった」
彼は地域で知られた資産家だ。不動産でうまくいったのだとみんなにいわれる。どうやって蓄財したのかという質問には、答えの代わりにこういった。
「済州島を離れてプサンに行ったとき、“済州糞豚”と笑いものにされた。日本に来ては“朝鮮人”と差別された。私は失うものも、惜しむものも、恐いものも何もない人間だ」
「済州4.3事件真相究明並びに犠牲者名誉回復に関する特別法」が2000年に制定されたが、7年後の今でも在日社会では馴染みが薄い。在外公館でも4.3犠牲者遺族申請を受け付けているが、広報も行き届いていないから、日本での申請者は78人に留まる。本国の韓国では1万3千名を超えている。
オカンヒョン大阪4.3遺族会事務局長はいう。「やはり自分が済州島出身だと現すのをためらう人が多い」
韓国では4.3の研究と再評価作業がなされて国民的認識が変わってきている。しかし、大阪では4.3の歴史認識が相変わらずだ。総連も民団も態度をはっきりさせていない。このような空気の中で済州島出身者は“済州人ではないふり”をして生きてきたのだった。
韓国政府の生ぬるい態度も問題だとオカンヒョン事務局長はいう。1997年、4.3事件50周年行事を準備していたとき、在外公館である大阪領事館はただちに行事をやめろと妨害したのだ。
その後、金大中が大統領になって領事館も行事に参加するようになった。ただし4.3事件遺族のためにことさら何かに乗り出すということはなかった。
本国の済州4.3委員会は事件60周年行事に在日同胞2千人を招待するといっていたのだが、結局13人が呼ばれたに過ぎなかった。故郷の土地に対する思いで、事件の傷を和らげようと期待していた在日同胞は失望している。
オ事務局長はこう分析する。
「政府が招請しないのは、遺族ではないという判断からだ。韓国政府は直系家族だけを遺族として認定している。しかし三寸(3親等)が亡くなった人、姑が亡くなった人、みんな遺族だ。まして、遺族であるもないも、4.3を経験して生き残るために日本に来た多くのディアスポラ(離散家族)の傷を慰める義務が韓国政府にはある」
・大統領公式謝罪を越えて真相究明を
2003年10月ノムヒョン大統領は公式に謝罪した。これを見てイボクスさんは夫の目を避けても敢えて51年間ぎゅっと閉じていた口を開いたのだった。
「テレビを見ていると、大統領が“すまない”というんだよ。ずっと済州島の土を2度と踏まないと思っていたのに・・・胸にこびりついていることが、ここに溜めていたことが、少し、とても少しほどける感じだ。
2世3世が(真相究明を)しようと、2つの足で駆け回っているので、私が直接できないとはいえ、こんなことでもしてやればこそさ」
川瀬俊二帝塚山大講師は毎年東京へ行く。済州4.3をテーマにしているマダン劇を見るためだが、その機会に多くの在日韓国人に会っている。
「いつだったか舞台上でマダン劇が真っ最中なのに、あるハルモニが進み出てお辞儀しながら涙を流すのを見ました。そしてお金を置いていったんです。まるで祭事を行っているようでした。
恐らくそのハルモニのように、話すことができなくて、胸に恨を隠したまま生きてゆく在日1世が数え切れないほど多いのでしょう」
韓国から日本に渡ってきた在日はその数もはっきり掴めていない。4.3事件が在日共同体に与えた影響も研究されていない。
第一の理由は人々が語ってこなかったからだ。今回の証言の集いはその人たちの口がほぐれたということで、大きな意味をもつ行事だったといえる。
今後はさらに多くの在日韓国人が口を開いて恨を解くようにすれば、大統領の謝罪の言葉を越える、きちんとした真相究明と犠牲者の名誉回復の意志を政府が見せる番になるはずだ。(了)
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