武田泰淳『富士』(中公文庫)
まず驚いたことには、この小説は映画にはならないなということであった。一人の人間の発する言葉が大きすぎるのだ。例えば精神病患者一条実見は、作者が2度ほど2行程度の相槌を挟んでも、6ページはしゃべり続ける。作者が「いつまでも長く、一条のおしゃべりを聴きとり」といっていることからも明らかだ。
またドストエフスキーが出てくると、私はそこを手放しで読んでしまうのだが、精神病院院長はカラマーゾフの兄弟からゾシマ長老を引用する。「あそこにはゾシマ長老とその弟子アリョーシャ青年が出てくるね。あの師と弟子は二人とも、宗教的なやさしさにつつまれているね。しかも二人の関係は、何の疑いも迷いもなく、浄く堅固な信念によって結びつけられている」
続けて、長老ほど人間精神の微妙な奥底まで入りこんでいた男が、どうしてあのやさしさを保つことができたのだろうか。ゾシマ長老もアリョーシャ青年も、たえず悪魔の呼びごえを耳にしながら、彼らの神にちかづいていたにちがいないんだ。と書く。
病院内でやさしさをもって接する院長は、ドストエフスキーの作り出したやさしさを持つことはできないが、別種のものだと信じていたかったようだ。それは何かは別として。終わりころ、南方の病院に赴任して、死んでしまう。
『富士』は太平洋戦争が終わるころ、富士山麓で精神病院を運営する院長以下の職員と患者たちの物語である。患者たちといったのは5,6人がいわば主人公である。私という作者も狂言回しに過ぎない。
631ページの長編であるが、本の紹介は埴谷雄高にまかせると、
精神と性のグロテスクで真剣な〈セイニク・精神と肉体〉の刻印を帯びた存在の諸相が精神病院のかたちをかりた現世の曼陀羅として悠容たる富士に見おろされている。
最後にこの本の唯一の欠点は、精神病院のストライキだ。事務長排斥のため黒い文字に赤い丸をつけた檄文が目立つ。最終2ページだ。何のために書いたのか。私には分からない。
歩行距離
9月26日(月)朝1・3キロ昼1・0キロ計2・3キロ
よく晴れた朝だった。交差点まで行った。最初は5・30分だったが、そのうち遅れて交差点まで21分30秒。20分、19分と上げよう。信号を渡ったベンチにいたら、坂下を下ってみようとなった。一度は行きたい道だ。100メートルぐらい降りたら、右横へ入る小道が見えた。うん、ちょっと無理かな。道と小道の段差が急だ。それが一段過ぎたら手すりがついているのだが。
帰り道、二股になっているところで階段が上がっている。さっきの道がこの階段に繋がっている。この階段の出口も私にとっては一苦労だ。小道の入口、出口は無理だった。
午後は団地の4つの棟の周りをえっちら歩いた。タイムは昨日とだいたい同じだ。
28日(火)朝1・0キロ昼 - 計1・0キロ
今日は10時から友達と三浦へ行った。城ケ島の先端で海を眺めた。駐車場を降りて先端まで500メートルか。一階と言おうか、海に近いところで昼飯を食べた。まぐろ丼というものだった。上手かった。
29日(水)朝1・0キロ昼 - 計1・0キロ
かなり風が強かったがバスで郵便局まで行った。交差点まで行って保土ヶ谷行きのバスに乗り、小学校で降りて50メートルもないところに郵便局があった。市の敬老パスを受け取りに行った。明日はどういう天気か分からないので、風の日でも今日しかなかった。帰りは足が痛い(ようだ)。これは初めての経験だ。右足が踏ん張れない。右足を意識的に前へ出そうとしているからか。明日か明後日様子を見よう。
30日(木)
10月1日(金)
2日(土)
3日(日)朝1・8キロ昼 - 計1・8キロ
2日は日曜日なのに3日が日曜日になっている。どこかおかしくなっている。
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Re: タイトルなし
> 9/27 が抜けてるのかな(^-^)
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