『鉄条網に咲いたツルバラ』を囲む人々

今朝は団地の大清掃日、のち消防訓練。老人世帯が多いので8時から。早いね。もっとも私は早起き組だ。朝は苦にならない。
私は防災部長だから、先週の日曜にも階段の班長に集まってもらって打ち合わせ会をもったし、一応忙しい。
さて、韓国の民主化運動は私の興味の大きな一つだ。この集会記事にとびついた。
5,60人くらい入る長机が並んだ集会室、私はそんな会場を思い描いていた。来日した韓国人の報告が終わって、司会者が参加者に質問を促したあとに流れる空白の時間。
そうなら私が質問してみよう。質問の初めには私の知っているハングルを使って、韓国人の気持を和らげた方がいいだろうか。私は質問内容をメモして会場へ出かけた。昨日だ。
私は労働運動に携わってきたわけではありません。
ハングルを勉強しながら70,80年代の韓国民主化運動に興味をもちました。
2点質問したいと思います。
1点目。
私はファンソギョンの『懐かしの庭』という小説を興味深く読みました。独裁政権下の闘争はまるでナチスが台頭したあとのヨーロッパの地下活動を思わせました。
ファンソギョンはその小説の中で、
「独裁政権が終わっても、重要な問題が残された。どんな集団でも民主的原則が貫徹されなければならない」
「なぜかといえば、反体制の立場で世界を眺めていた思想は、それを現実化させる過程で歪曲されてしまった。つまり、自分自身を発見することができなかった。互いに力をあわせること、それが市民の誕生だったのに」
というようなことを書いています。
民主的原則の貫徹が残されたということは、それがなかったということです。
また、互いに力をあわせることが必要だったと振り返っています。
何らかの対立があったということでしょう。
それは韓国特有の事情なのか、あるいは日本の戦後民主主義運動を振り返る際にも当てはまる共通の、普遍的な事情なのかを知りたいと思います。
具体的にいえば、路線の対立なのか、あるいは韓国では根強いといわれる地域的対立なのか、またはただ運動をしている個人の性質・性格の問題なのか。
運動の上でどんな対立があったのかお聞かせ下さい。
2点目。
先ほどのことと関連していると思います。
日本では労働運動を初め、学生運動、市民運動などすべての民主的運動を担った人の多くは社会主義という思想と実践に理解をもっていました。
韓国ではどうでしたでしょうか。
会場の韓国YMCA会館は水道橋のビルとマンションに挟まれてドンと建っていた。恐らく改築したばかりではないだろうか。1階ロビーはホテルを思わせた。エレベーターで9階の国際ホールへ。勝手がちょっと違う。
私は定刻に着いたが、会場はすでに満席に近く、プログラム最初のビデオ上映が始まるところだった。ちょっと安心した。どのように切り出して質問しようかなどという心配は杞憂のようだ。というのは、シンポジウムというよりも出版記念会という雰囲気が満ちていたから。“お仲間”という人たち。こういう捉え方は長年の直感的なものだ。
プログラム見ると、シンポジウム終了後に交流会が予定されていた。出版記念パーティーならそっちでやればいいのに。
来日した4人の韓国女性たちは私に地味な印象を与えた。本の著者はまだ20代の中頃だろうか、初々しくこれから大いに活躍の場が広がるに違いない。女性労働運動の担い手は、生活の場がそのまま活動の場に移ったようだった。アジテーターとは微塵も感じさせない。
実はこの“地味”という印象は私には意外だった。
私が韓国へ行ったのは7年前になる。当時女性たちは例外なく深紅の、まさに黒っぽい真紅の口紅をつけていた。
この会の最初に上映された運動を振り返るビデオでも、活動家という女性たちでさえその口紅だ。このビデオは90年代で終わっている。ひょっとしたら2000年前後の流行であって、今はどんな女性でも深紅の口紅ということはないのかもしれない。
来年韓国へ行ったとき実のところを報告できるだろう。
中休み後に在日韓国人コーラスグループが民衆歌謡を歌った。日本で言えば労働歌だ。『鉄の労働者』を歌ったとき、来日した女性たちも会場正面に出て歌に加わった。こぶしを振り上げるようなフリ付きだ。ある女性は歌いながら涙を流した。異国でこのような連帯の場をもてるとは思わなかったのだろう。
彼女は貧困層の女性問題から韓国労働事情まで、的確に幅広い報告を行える人だった。
コーラスはこのYMCA会館でグループ活動をしているようだ。詳しいことは知らない。会館を一歩出ればもちろん苦労もあるだろう。今日、我が家で祖国の人を迎えるという歓びと気負いとが感じられた。最良のホストといってもよかった。
報告中に地震があった。韓国には地震がないというから驚いただろうな。私は隣のマンションを眺めた。女性がベランダで植木の手入れに余念がなかった。それでたいしたことはないだろうと安心した。
本については、まだ読んでいない。いずれ読後感を書く
そうなら私が質問してみよう。質問の初めには私の知っているハングルを使って、韓国人の気持を和らげた方がいいだろうか。私は質問内容をメモして会場へ出かけた。昨日だ。
私は労働運動に携わってきたわけではありません。
ハングルを勉強しながら70,80年代の韓国民主化運動に興味をもちました。
2点質問したいと思います。
1点目。
私はファンソギョンの『懐かしの庭』という小説を興味深く読みました。独裁政権下の闘争はまるでナチスが台頭したあとのヨーロッパの地下活動を思わせました。
ファンソギョンはその小説の中で、
「独裁政権が終わっても、重要な問題が残された。どんな集団でも民主的原則が貫徹されなければならない」
「なぜかといえば、反体制の立場で世界を眺めていた思想は、それを現実化させる過程で歪曲されてしまった。つまり、自分自身を発見することができなかった。互いに力をあわせること、それが市民の誕生だったのに」
というようなことを書いています。
民主的原則の貫徹が残されたということは、それがなかったということです。
また、互いに力をあわせることが必要だったと振り返っています。
何らかの対立があったということでしょう。
それは韓国特有の事情なのか、あるいは日本の戦後民主主義運動を振り返る際にも当てはまる共通の、普遍的な事情なのかを知りたいと思います。
具体的にいえば、路線の対立なのか、あるいは韓国では根強いといわれる地域的対立なのか、またはただ運動をしている個人の性質・性格の問題なのか。
運動の上でどんな対立があったのかお聞かせ下さい。
2点目。
先ほどのことと関連していると思います。
日本では労働運動を初め、学生運動、市民運動などすべての民主的運動を担った人の多くは社会主義という思想と実践に理解をもっていました。
韓国ではどうでしたでしょうか。
会場の韓国YMCA会館は水道橋のビルとマンションに挟まれてドンと建っていた。恐らく改築したばかりではないだろうか。1階ロビーはホテルを思わせた。エレベーターで9階の国際ホールへ。勝手がちょっと違う。
私は定刻に着いたが、会場はすでに満席に近く、プログラム最初のビデオ上映が始まるところだった。ちょっと安心した。どのように切り出して質問しようかなどという心配は杞憂のようだ。というのは、シンポジウムというよりも出版記念会という雰囲気が満ちていたから。“お仲間”という人たち。こういう捉え方は長年の直感的なものだ。
プログラム見ると、シンポジウム終了後に交流会が予定されていた。出版記念パーティーならそっちでやればいいのに。
来日した4人の韓国女性たちは私に地味な印象を与えた。本の著者はまだ20代の中頃だろうか、初々しくこれから大いに活躍の場が広がるに違いない。女性労働運動の担い手は、生活の場がそのまま活動の場に移ったようだった。アジテーターとは微塵も感じさせない。
実はこの“地味”という印象は私には意外だった。
私が韓国へ行ったのは7年前になる。当時女性たちは例外なく深紅の、まさに黒っぽい真紅の口紅をつけていた。
この会の最初に上映された運動を振り返るビデオでも、活動家という女性たちでさえその口紅だ。このビデオは90年代で終わっている。ひょっとしたら2000年前後の流行であって、今はどんな女性でも深紅の口紅ということはないのかもしれない。
来年韓国へ行ったとき実のところを報告できるだろう。
中休み後に在日韓国人コーラスグループが民衆歌謡を歌った。日本で言えば労働歌だ。『鉄の労働者』を歌ったとき、来日した女性たちも会場正面に出て歌に加わった。こぶしを振り上げるようなフリ付きだ。ある女性は歌いながら涙を流した。異国でこのような連帯の場をもてるとは思わなかったのだろう。
彼女は貧困層の女性問題から韓国労働事情まで、的確に幅広い報告を行える人だった。
コーラスはこのYMCA会館でグループ活動をしているようだ。詳しいことは知らない。会館を一歩出ればもちろん苦労もあるだろう。今日、我が家で祖国の人を迎えるという歓びと気負いとが感じられた。最良のホストといってもよかった。
報告中に地震があった。韓国には地震がないというから驚いただろうな。私は隣のマンションを眺めた。女性がベランダで植木の手入れに余念がなかった。それでたいしたことはないだろうと安心した。
本については、まだ読んでいない。いずれ読後感を書く
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